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【世界史】エジプト文明その2 3つの時代区分

このお話は「エジプト文明その1 その発生と死生観」の続編です。

 

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古代エジプト王国は約2600年も続いた。

古王国時代

 

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ファラオは太陽神ラーの化身として世界に君臨した。

 古王国時代のもっとも大きな特徴は、ファラオの強大な支配力を示す巨大な建造物がいくつも建てられたことにある。

その名もピラミッド

詳しくはWikipediaをご参照ください。

エジプトのピラミッド - Wikipedia

エジプトでは以前からマスタバと呼ばれる大きな四角い墓が、貴族のために建造されていた。 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Mastaba-faraoun-3.jpg

File:Mastaba-faraoun-3.jpg - Wikimedia Commons

しかし前27世紀後半に、ジェセル王の墓として造られたマスタバが何度も拡張され、最終的に階段ピラミッドとして完成した。これが最初のピラミッドである。最初はファラオの墓として建造されたのだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Saqqara_BW_5.jpg

ファイル:Saqqara BW 5.jpg - Wikipedia

ただし、次のファラオ・スネフェル王は、一人で3基もピラミッドを建造した。こうなると、ピラミッドが本当にファラオの墓として建造されたものなのか疑念が生じてきた。

そしてその次のファラオ・クフ王が最大規模のピラミッドを建造した。

高さ146.6メートル、底辺の長さ230メートル。銀座の歌舞伎座ビルが高さ145メートルなので、エジプトまで行けない人は、銀座で大きさを想像してみてください。

クフ王のピラミッドに隣接して、その息子のカフラ王と、またその息子のメンカウラ王のピラミッドが3つ並んでいる。3つを総称してギザの3大ピラミッドという。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/All_Gizah_Pyramids.jpg

ファイル:All Gizah Pyramids.jpg - Wikipedia

手前からメンカウラ、カフラ、クフと並んでいる。

 

とはいえ、ピラミッドの建造には膨大な時間と労力を要する。だから次第に組み立て方も粗雑になっていった。そして古王国時代が終わると、ピラミッドも建造されなくなる。

 

前22世紀頃から王権は急速に衰退し、以後100年ほど、エジプトは混乱の戦国時代を経験することになる。

 

 中王国時代。

 

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移り行く信仰のかたち。

前2040年頃、「上エジプト」 の都テーベの豪族によってエジプトの再統一が実現した。中王国時代の始まりである。

ファラオは相変わらず太陽神ラーの化身として世界に君臨していたが、テーベがエジプトの首都となったことで、テーベの守護神アモンの信者が急速に増えていった。

いつしかラーとアモンが融合し、新たなアモン=ラー信仰がこの頃始まった。

とはいえ、アモン=ラー信仰が盛んになるのは「新王国時代」になってからである。

 

また、この時代にはもうピラミッドは建造されなくなっている。代わって建てられるようになったのがオベリスク

写真はヘリオポリス(現・カイロ近辺にあった、太陽神を祀る都市)に建てられた、現存する最古のオベリスク

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ファイル:Héliopolis200501.JPG - Wikipedia

最大のものはカルナックのアモン大神殿に立つもの。高さ29.56メートルに及ぶ。

しかし前1世紀以降、古代ローマがエジプトを支配するようになって以降、戦利品として多くが海外へ持ち出されてしまった。

例えば下の写真はイタリアのヴァチカン市国サンピエトロ寺院の広場に立っているオベリスク

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File:Obelisk of St. Peter.jpg - Wikimedia Commons

 

異民族による支配。

前1650年頃、ついにエジプトも大規模な異民族の侵入に見舞われた。

敵は正体不明のアジア系と思われる民族。ヒクソスと呼ばれていた。彼らは馬と戦車に乗ってシナイ半島方面からエジプトへ侵入した。そして下エジプトのデルタ地帯を中心にエジプトの支配権を固めた。

ヒクソスが都としたのは、ナイル河口に近いヴァリスである。

ヒクソスがエジプトを支配したのは108年間とされている。その間に、ヒクソス人の王が6人いた。

 

新王国時代

 

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復活と繁栄。

ヒクソスの支配はそれほど厳しいものではなかったようだ。実際、エジプト人の役人がヒクソスの王に仕えているし、エジプトの伝統や習慣も積極的に取り入れていたようだ。

そんな中、エジプト人たちはヒクソスの優れた軍事技術を学んでいった。

そして前1570年頃、「テーベ」の王族がついにヒクソスをエジプトから追い出した。

こうして新王国時代が始まるのだ。

都は中王国時代と同じテーベである。

また前15世紀になると、ファラオの遺体は王家の谷に集中して葬られるようになる。

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ファイル:Valley of the Kings panorama.jpg - Wikipedia

「王家の谷」に最初に埋葬されたのはトトメス1世。

これまで、ファラオの墓はことごとく盗掘に遭い、副葬品の金銀財宝は盗まれてしまった。それを危惧したトトメス1世は、はじめて自分の墓を隠そうと、この谷の奥底に葬られたのだ。

しかし結局は盗掘されてしまったのだが。

 

前15世紀に活躍したファラオトトメス3世の時代、エジプトはシリア、パレスティナナイル川上流域へと大きく勢力を拡大、エジプト史上最大の版図を実現した。

特にナイル上流域のヌビアからは、年間300キロもの黄金がもたらされたという。

エジプトは「塵のように」黄金を持つ国として、周囲からあこがれられた。

 

史上初の一神教

歴代のファラオは遠征に成功するたび、テーベの守護神であるアモン神殿に寄進した。

だからこの神殿に仕えるアモン神官団はいつしか大きな権力を握るようになり、前14世紀にはファラオの即位や退位にまで影響するようになってしまった。

そこでファラオアメンホテプ4世は、王権からアモン神官団を一掃するため、思い切った「宗教改革」を断行した。

 

改革の主な内容は2点。

まずは首都を、テーベからナイルを277キロほど下ったところに新設した。新都の名はアケトアトン(アトン神の地平線)とされた。現在の「テル=エル=アマルナ」に建設された。

テーベにこもっていては、アモン神官団の影響力から逃げられない。だから、全く新しい都を建造し、アモン神官団をテーベに置き去りにすることで、彼らの呪縛から逃れようとしたのだ。

 

同時に、それまでの太陽神ラーに代わる新たな太陽神アトンを創造し、これ以降は他の神々への信仰を禁止し、さらに神々の像も破壊させた。

おそらくは史上初めて一神教が誕生した瞬間である。

下の写真の中央にアメンホテプ4世がいる。そして右上の丸くて線が放射状に出ているものがアトン神。写真ではよくわからないが、放射状の線の先には人差し指だけ伸ばした手がついている。

 

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ファイル:La salle dAkhenaton (1356-1340 av J.C.) (Musée du Caire) (2076972086).jpg - Wikipedia

 

これまでの、動物を擬人化したようなエジプトの神々とはまるで違い、太陽をかたどったシンボルだけの姿で表現されている。

 

長いこと都だったテーベを離れたことで、芸術面でも過去の縛りから解放された写実的な美術が花開いた。これをアマルナ美術と呼ぶ。

下の写真はアメンホテプ4世の妻ネフェルティティの胸像。「アマルナ美術」を代表する傑作である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/Nofretete_Neues_Museum.jpg/410px-Nofretete_Neues_Museum.jpg

ファイル:Nofretete Neues Museum.jpg - Wikipedia

 

アモン神官団の勝利

前1336年頃、イクナートンはこの世を去った。

彼の改革はあまりに強引なものだったので、彼が死ぬとさっそくアモン神官団が力を取り戻してしまった。

新都アケトアトンは徹底的に破壊され、首都はテーベに戻された。

そしてイクナートンの息子ツタンカーメンがわずか9歳でファラオに即位した。

ツタンカーメンは「トゥト=アンク=アメン」(アモン神の生ける似姿)がなまったものである。

しかし即位前は「ツタンカートン」と名乗っていた。つまり「アトン神の生ける似姿」。

つまり、即位したときアモン神官団によって改名させられたのだ。

ツタンカーメンは18歳で亡くなっている。死因ははっきりとは分かっていないが、生まれつき足が不自由だったらしく、戦車から落下して大腿骨を骨折、それがもとで敗血症にかかって亡くなってしまったという説がある。(諸説あり)

 

1922年11月4日、ツタンカーメンの墓が発見された。発見者はハワード=カーター

奇跡的に盗掘を免れていて、埋葬時そのままの姿で発見された。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Tutanchamun_Maske.jpg/425px-Tutanchamun_Maske.jpg

ファイル:Tutanchamun Maske.jpg - Wikipedia

 

古代エジプトには不思議な習慣があって、ファラオとなる男の出自はあまり関係なく、ファラオの血を引く女性と結婚することが条件となる。

別に実の父親がファラオ経験者でなくてもいいのだ。

ツタンカーメンの奥さんはアンケセナーメンという女性。ネフェルティティの実子であり、ツタンカーメンの異母姉である。

ちなみにツタンカーメンの母親はイクナートンの妻で姉妹にあたる女性だ。つまり二人は異母姉弟である。

下の写真はツタンカーメンの墓から出土した玉座。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Thronsessel_von_Tutanchamun.jpg/567px-Thronsessel_von_Tutanchamun.jpg

File:Thronsessel von Tutanchamun.jpg - Wikimedia Commons

向かって左がツタンカーメン。右がファラオに香油を塗るアンケセナーメン

二人が仲睦まじかったことをうかがわせる場面である。

 

ツタンカーメン死後、アンケセナーメンを娶ったのは、アモン大神官のアイだった。

ついに、アモン神官団からファラオが出てしまった。完全勝利と言っていいだろう。

アイはイクナートンの父アメンホテプ3世の時代から王家に仕えていたというから、この時点で相当なご高齢だったはずだ。

実際、その治世は4年で終わっている。

しかし、アモン神官団と王家は蜜月関係となり、以後長くともに繁栄を享受することとなる。

 

最古の国際条約。

時代は少し下って前13世紀。

エジプトはラムセス2世の治世。

一方アナトリア半島にはヒッタイト王国が栄えていて、シリア方面へ勢力を拡大していた。当時のヒッタイト王はムワタリ2世

シリアはトトメス3世の時代からエジプトの影響下にあったが、そこへヒッタイト勢力を広げてきたことで、ついに両者が激突することになった。これが前1274年に勃発したカデシュの戦いである。

 

シリアにはカデシュという都市国家があった。もう150年の長きにわたってエジプトを宗主国としていたのだが、ついにエジプトからヒッタイトへ鞍替えした。

ラムセス2世は自ら18000の兵を率いてカデシュ奪還に赴いた。

その途中、エジプト軍はヒッタイトの斥候(偵察部隊)を捕まえ、尋問した。そこで得られた情報によると、ヒッタイトの軍は、まだカデシュから遠く離れたところにいる、ということだった。

これをチャンスと見たエジプト軍は、油断したままカデシュへと突き進む。
しかしこの情報はヒッタイトの罠だったのだ。遠くにいるというニセ情報を持たせた斥候に、わざと捕まるように偵察させたのである。

ヒッタイトの本隊は、本当はもうすぐ近くに来ていて、油断したエジプト軍が来るのを待ち構えていた。

不意をつかれたエジプト軍は総崩れ。大将のラムセス2世にヒッタイト軍が迫る。
しかしここでヒッタイト軍は、ラムセス2世が慌てて逃げるときに放りだした大量の金銀財宝に群がってしまい、目の前の戦闘を放棄してしまうのだった。

危うく難を逃れたエジプト軍は体勢を立て直し、逆襲をはじめる。

 

結局この戦いで、ラムセス2世はカデシュの街を取り戻すことができなかった。

そしてムワタリ2世の提案で、両国は平和条約を結ぶことになった。

 

ただし、両国とも「我が国が勝利した」と宣言している。

その条約文が、ヒッタイトからもエジプトからも出土している。だから、こんな大昔の戦いなのに、ここまでに詳しい情報が分かったのだ。
カデシュの戦いは、戦いの原因から準備、戦況、平和条約の内容まで詳しく記録された、最古の戦いである。

 

下の写真は、ヒッタイトの都ハットゥシャ遺跡から出土した、カデシュの戦いにおける平和条約が記された粘土板。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Istanbul_-_Museo_archeol._-_Trattato_di_Qadesh_fra_ittiti_ed_egizi_%281269_a.C.%29_-_Foto_G._Dall%27Orto_28-5-2006.jpg/450px-Istanbul_-_Museo_archeol._-_Trattato_di_Qadesh_fra_ittiti_ed_egizi_%281269_a.C.%29_-_Foto_G._Dall%27Orto_28-5-2006.jpg

ファイル:Istanbul - Museo archeol. - Trattato di Qadesh fra ittiti ed egizi (1269 a.C.) - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg - Wikipedia

 

古代エジプトの繁栄は、あと70年ほど後に突如襲ってくる前1200年のカタストロフィまで、いましばらく続くことになる。

 

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