このお話は「アッシリア」の続編です。
カルデア王国。
前609年にアッシリア帝国が滅亡した。滅ぼしたのは、バビロニアの王ナボポラッサル。
彼の建国した新バビロニア王国(カルデア王国)は、ティグリス・ユーフラテス川流域からパレスティナにいたる、いわゆる肥沃な三日月を支配する強大な国家に成長した。
エ=テメン=アン=キ。
アッシリアを滅ぼしてメソポタミアの新たな支配者となると、ナボポラッサルは都バビロンに、自分の権威・権力を誇示するための巨大なジッグラトの建設に着手した。
その名もエ=テメン=アン=キ。シュメール語で「天と地の基礎となる建物」という意味を持つ。
もともとシュメール人が、これより2000年以上前に建設を開始して途中で投げ出していたか荒廃していていたジッグラトを、ナボポラッサルが修築したものとされている。
ただし、完成したのは第2代王ネブカドネザル2世の時代である。
底面91m×91m、高さ(推定)91mという巨大さで、7層に分かれていた。
おそらくは、後に『旧約聖書』でバベルの塔と呼ばれる建造物のモデルになったものだろう。
この絵画はピーテル=ブリューゲル(父)の描いた『バベルの塔』。
この記事を執筆している2017年6月6日現在、ちょうど上野の東京都美術館で、ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの
『旧約聖書』では、バベルの塔について以下のような伝承が紹介されている。
もともと世界中の人類は、同じ言語と言葉を用いていた。
彼らは「シンアル」(シュメール?)の地に町を作ったが、その町を有名にするために巨大な塔を建造しようと思った。
彼らの目指した塔の高さは、まさに天に届いてしまうほどのものだったので、それを見物しに天から降りてきた神は「人間ごときが天国に届くほどの建物を造るなどおこがましい。」とお怒りになり、人間に罰を与えた。
すなわち、それまで同じ言葉を話していた人々が、みんなまるで違う言葉を話すようになり、互いに意思の疎通ができなくなってしまったのだ。
パニックに陥ってちりじりに逃げていく人々。こうして町と塔の建設はとりやめられた。そして世界中に様々な言語が生まれたのだ。
その後、この町は「バベル」と呼ばれるようになった。神様が全地の言葉を混乱(バラル)させた町だからである。
相変わらず、無慈悲で理不尽な神様。
とはいえ、伝説級の巨大なジッグラトを建設できるほどの財力と支配力を持った新バビロニア王国の偉大さを伝えるには十分な逸話だと思う。
バビロン捕囚。
カルデア王国の第2代王は、ナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世。
前586年、ヘブライ人の営んでいたユダ王国を滅ぼし、その住民を都バビロンに強制移住させた。
『旧約聖書』にあるバビロン捕囚である。
強制移住政策自体はアッシリアが先輩である。
イスラエル王国を滅ぼした際、住民は帝国中にちりじりに強制移住させられた。そのため彼らが団結してアイデンティティを維持することは困難だった。
しかしカルデア王国はユダの民を、かなりまとめてバビロンに移住させたようだ。その甲斐あって、ユダの民は結束を保ち続けた。
思えば、ユダヤ教が成立できたのも、この「バビロン捕囚」があってこそではないか。
リディア。
アナトリア半島の西部はアッシリアの領域には含まれなかったが、この地域ではリディア王国が勢力を拡大していた。
この国の強みは、東でキリキア王国と接し、西ではギリシア世界と接する交通の要衝であったことと、国内で金が産出したことにある。
そして前670年頃、世界史上初めて鋳造貨幣がこの国で作られた。
帰属: Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com
写真の貨幣は前6世紀頃作成されたものである。
はじめて作られた鋳造貨幣は、金と銀の合金であるエレクトロンが素材となっている。
ちなみに、当時のギリシアのことわざに沈黙は金、雄弁は銀というものがある。
ギリシア人にとっては人前で堂々と説得力のある演説ができる人物がもてはやされたので、雄弁な方が人間としての価値を認められた。
つまり、当時は金よりも銀のほうが価値が高かったのだ。
というのも、金は比較的塊のまま発見されることが多いが、銀は塊で発見されることが極めてまれだったからだ。
しかし、銀鉱石を生成する方法が発見されると、次第に生産量が増え、ついに金よりも価値の低いものとなってしまった。
メディア。
イラン高原を中心に、アナトリア半島東部からインダス川近くにいたる広大な領域を支配したのがメディア王国。
あまりに広大だったので、全国をいくつかの州に分け、州の支配は王が任命したサトラップと呼ばれる知事が執り行っていた。
この制度は、前550年にメディア王国を滅ぼしたアケメネス朝に受け継がれることになる。
ハリュス川の戦い。
メディア王国とリディア王国はアナトリア半島の覇権をめぐって激しく争っていた。
そんな戦いの一つにハリュス川の戦いがある。前585年5月28日に行われた戦いである。かの「バビロン捕囚」の翌年に行われた戦いでもある。
年号だけでなく、日付まではっきり明記できるところがこの戦いの最大の特徴だ。
ギリシアの歴史家ヘロドトスが著した『歴史』によれば、この戦いの真っ最中に日食が起こったという。突然、太陽が欠けて周囲が真っ暗になってしまい、両軍の兵士たちは恐れおののいて戦いが続けられなくなってしまった。
そこで、カルデア王国のネブカドネザル2世とキリキアの王が仲介役を買って出て、両国は和平を結んだという。メディアとリディアの国境は、このハリュス川と定められた。
日食は、計算すれば過去のいつ発生したか算出できる。それで「5月28日」まで細かく特定することができたのだ。
ちなみにこの日食、ヘロドトスによれば、「哲学の父」タレースが その発生を予言していたという。
エジプト末期王朝。
最後はエジプト。「前1200年のカタストロフィ」以降を末期王朝時代と呼んでいる。
混乱して衰退したエジプトでは、前8世紀頃にナイル川上流にあったクシュ王国によって征服された。
しかし前671年にアッシリアが侵攻してくると、再びナイル上流へと撤退した。
アッシリアが滅亡したのち、エジプトは独立したが、この時代の王として有名なのはネコ2世。
前600年頃、フェニキア人に命じてアフリカ一周の探検をさせたという。
分裂期の終焉。
アッシリア帝国滅亡後、4つの王国がオリエントの覇権をめぐって激しく争った。
しかしこの4王国は、すべて一つの国によって滅ぼされることとなる。
アケメネス朝ペルシアの誕生である。