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【世界史】 古代ギリシア文明 ポリスの成立。

このお話は「エーゲ文明。」の続編です。

 

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3つの方言集団。

400年の長きにわたり、ギリシアは混乱の時代を耐えた。

アカイア人が用いていた線文字Bは失われ、人々は歴史を文字として残す術を失った。

しかしながら、彼らの生きたその痕跡は残っている。400年の間に、いったいどのような変化があったのだろうか。

 

暗黒時代の始まりを告げたドーリア人の侵入。彼らによって、かつてミケーネ文明を営んでいたアカイア人が押し出されるようにエーゲ海へと広がっていった。

そのうち、小アジア北西部に移動した集団がアイオリス人

また、小アジア南西部に移動した集団がイオニア人

そして、この大移動の引き金となったドーリア。彼らはペロポネソス半島南部からクレタ島、そして小アジア南部へと領域を拡大していった。

これら3つの集団は皆ギリシア系の人々だが、方言によって大きく3つに分類されるのだ。

 

古代ギリシアの歴史を少しでもかじったことのある方は、上に掲示した地図を見て気が付いたかもしれない。

中心的ポリス(ギリシア都市国家)として有名な、アテネスパルタ、そしてテーベ。全部構成種族が違うのだ。

アテネイオニア人、スパルタはドーリア人、そしてテーベはアイオリス人が営んだポリスである。

古代ギリシア史を通じてほとんど対立していたのも、なるほどとうなずけるところではないだろうか。

 

アカイア人はこれ以外にも多くの方言集団を形成したが、あまりに多いし細かいので割愛する。

 

 

話がややこしくなるのは、彼ら小アジアに渡った集団が全員まとまって移動したのではなく、一部がギリシア本土に残り、後々まで相互に関わりを持ちながら生きてきたことにある。

有名なところはアテネとその植民市であるミレトス。後に紹介するペルシア戦争の発端となるポリスだ。

 

ポリス。

暗黒時代が明けた前8世紀、ギリシアには1000を超すポリス都市国家)が成立していた。

「ポリス」はいくつかの英語の語源となっている。すなわちpolice(警察)、policy(政策)、politics(政治)など。

 

長い戦乱の中で、ギリシア人たちは身を守るため、有力な貴族を中心に、軍事拠点として有効な丘に集まって住むようになった。この丘をアクロポリス(城山)という。軍事拠点としてだけでなく、人々はこの城山に張り付くように住んだ。だから丘の周囲には強固な城壁がめぐらされた。

メソポタミア文明では、都市国家に住むのは農業に携わらない人々がほとんどだと紹介したと思う。

 

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 しかしギリシアでは、農民もアクロポリスに住んでいた。それだけ戦乱が激しかったということだろうか。

本気で皆さん集まって生活したのでシノイキスモス(集住)と呼んでいる。

社会が安定してくると人口も増えてくるので、山の中だけでは居住空間が不足してくる。そのうち山の麓へと居住区を拡大し、それに応じて城壁も大きな空間を囲うようになっていく。

アクロポリスはもはや居住区ではなくなり、代わりに武器庫を兼ねた神殿がたてられた。有名なのがアテネパルテノン神殿

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4b/Acropilos_wide_view.jpg/640px-Acropilos_wide_view.jpg

File:Acropilos wide view.jpg - Wikimedia Commons

 

ポリスの特徴。

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外観。

毎度手前味噌で恐縮だが、ポリスの模式図を描いてみた。

アクロポリスの麓にはアゴ(広場)がある。市民たちの憩いの場であり、議論を戦わせる場でもあった。

アゴラの周辺に居住区が広がり、それらをぐるっと城壁が囲んでいる。

そして城壁の外には広大な田園が広がっている。

これでポリス1セットである。

 

政治体制。

暗黒時代以前のエーゲ文明とは大きく異なり、どこかの時点で王様の権威は失墜してしまった。

スパルタのように王様が君臨するポリスもあったが、多くのポリスは民共同体という、当時の世界では極めて珍しい政治制度が営まれていた。有力市民の行う議会によって、話し合いで国の行く末を決定していたのだ。

王様がいるポリスでも、王の権力はそれほど大きなものではなく、せいぜい強いリーダーといった程度のものだったようだ。

とはいえ、政治に参加できるのは限られた人々のみ。すなわち、自前で武具をそろえられ、命をかけてポリスを守れる貴族に限られていた。

 

植民市。

ポリスは頑丈な城壁で囲ってしまっている。しかもギリシアの土地は石灰質で痩せているところが多い。

だから人口が増えてくると一つのポリスでは抱えきれなくなる。すると、まるで蜂の分蜂のように、大勢でまとまって遠くへ引っ越していくのだ。

そうやって地中海や黒海の沿岸に散らばり、住みやすそうな場所を見つけるとそこに新たなポリスを建設するのだ。こうして建設されたポリスを植民市という。

ミレトス、シラクサネアポリスマッサリア、ビザンティノポリス・・・数え上げたらきりがないが、有名なものがたくさんある。

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相変わらずの戦闘民族。

暗黒時代が明けても、結局彼らの戦闘民族という性格は変わらなかった。だから互いに戦争ばかりしていたのだが、なぜかギリシア人同士は「我々は同じ民族だ」という同族意識が強かったようだ。

自分たちをヘレネスと呼び、周辺民族をバルバロイと呼んで区別していた。

ヘレネス」とは、かのトロイア戦争の原因となった、スパルタ王メラネオスの妻ヘレネの子孫という意味である。

一方「バルバロイ」とは「聞き苦しい言葉を話すもの」の意。

 

同族意識」が非常に強いので、殺し合いを続けながらも、共通の神事を祝うこともあった。有名なのが、4年に一度5日間催されるオリンピアの祭典

この祭典が開催される期間は、たとえポリス間で戦争を繰り広げている最中でも、いったん休戦してお祭りを優先させたくらいである。

競技種目は円盤投げや幅跳びといった、現在のオリンピック競技として見られるものも多いが、ギリシア人が最も好んだのはパンクラスという総合格闘技だった。ルール無用の殴り合いである。参加者は全員全裸で、体にオイルを塗って戦った。

競技に優勝したものには、月桂樹で作られた冠と名声が与えられた。金銭など、俗物的なご褒美は一切与えられなかった。

 

残念ながらオリンピアの祭典は393年に廃止されてしまう。ギリシアを支配したローマ帝国で、392年にキリスト教が国教化されたのがその理由である。

 

オリンピアの祭典がオリンピックとして復活したのは1896年。フランスの教育学者ピエール=ド=クーベルタン男爵の提案による。

 

神の啓示。

ギリシア人は、それぞれが属するポリスに主神を持っていた。有名なのはアテネを守る女神アテナ。

とはいえ、オリンポス十二神を中心とした神々の体系を信じていて、様々な神に祈りを捧げていた。

特に、デルフィのアポロン神の神託は、どこのポリスも悩みがあると訪れ、占ってもらっていたようだ。

神殿は崖っぷちに建っていて、その崖からは有毒ガスが噴出していた。いつも神殿にいる巫女はガスにやられて一種のトランス状態になっている。そこへ難しい質問を投げかけるのだ。答えは当然支離滅裂なものになるだろう。

そんな訳の分からない言葉を「神託」として受け取り、あとは神官たちがわかりやすい言葉に翻訳するのだ。

 

ギリシアの人々はことあるごとにデルフィに行ってお告げを聴いていたので、神官たちはギリシア中の秘密を知ってしまうことになる。だから各ポリスに大きな影響力を持つようになってしまった。

それを逆手にとって、あるポリスは神官に多額の賄賂を贈り、敵をかく乱するための情報戦まで仕掛けていたという。

 

貴族、平民、奴隷。

ポリスの構成員は、大きく市民奴隷に区分される。

そして市民は、大きく貴族平民に区分される。

貴族とは、暗黒時代から家系がわかっている由緒正しい家柄の方々。経済的にも裕福だ。自腹で武具をそろえることができるので、命をかけてポリスを守ることができる。

命をかけるほどポリスに貢献しているのだから、政治は貴族に独占権が与えられていた。

 

一方、平民は貴族のように過去にさかのぼれるほどの家柄でもないし、武具をそろえる金銭的な余裕もない。要するに一般人であり、ほとんどが農業を生業としている。

とはいえ、貴族に支配されているというわけでもない。れっきとした自由人である。だから土地も所有していたし、それなりの財産も蓄えていた。

 

これら市民が所有していた土地をクレーロス(持ち分地)という。城壁の外に農園が広がっていて、その農園が各市民の「クレーロス」である。

そしてこのクレーロスを実際に耕しているのが奴隷たち。

言い方を変えるなら、農民とは地主のことなのだ。もちろん自分たちも実際に農園の手入れをするかもしれないが、基本的に、そのような肉体労働は奴隷がする仕事だった。

 

女性の地位。

貴族であろうと平民であろうと、市民と呼ばれるのは18歳以上の成年男子のみ

政治や経済に関して、女性はもっぱら蚊帳の外。多くのポリスでは、女性はその一生を家の中で過ごしたという。

そして15歳くらいになると、30歳くらいの男性に嫁ぐことになる。

現代日本の価値観で観たら大変な女性蔑視に映るだろうが、当時のギリシアではこれが当たり前のことであり、ほとんどのみなさんが、人生とはそういうものなのだと納得して生きていたのだ。

 

歴史を勉強していて良く思うことだが、現代の自分たちの価値観で過去の風習や思想を批判するのはどうかと思う。

当時の彼らは、彼らが生きた伝統の中で自分たちの価値観を育み、それに倣って生きていた。

そんな過去の人々の価値観や習慣を批判する現代の我々も、実は現代社会という価値観に従って思想を育み、それに倣って生きている。

そういった意味では、過去も現在も、たぶん未来も同じなのだ。

未来の人々から見たら、ひょっとしたら今生きる僕らの価値観や風習が、下卑たおぞましいものに映るかもしれない。

だからといって、単純に「ああそういうものだったのね」で済ませてしまうのももったいない。

過去に生きた人々が、何か重大な選択を迫られたとき、どのような行動に出たか。またその経験から、どのような教訓を得たか。彼らの生きざまそのものが、今ある我々の生きる道しるべになるかもしれない。

「歴史を学ぶ」とは、結局は自分たちがどう生きるかのサンプルを探す旅なのだと思う。

 

以上、ポリスの外観について解説してみた。

次回は古代ギリシア史の中心となる二つのポリス、アテネスパルタについて述べたいと思う。

どちらも奴隷の扱い方で大きく運命が変わったポリスである。

 


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