毎年例外なく、子供たちが吐く文言である。
今年度もさっそく挑まれた。
以下は、先日の授業中に思い付きでしゃべった内容である。きっかけは、ある生徒からの「試験ってどんな感じですか。プリント暗記すればいいんでしょ。」というありきたりな質問だった。
緑が俺のセリフ、オレンジが子供たちの反応。そして黒が解説としようか。
ちょうどいいな、じゃあその辺の話でもしようか。
そもそも歴史って何だろう。仮にこの地球上に一人も人間がいなかったとしたら、そこに歴史は生まれるだろうか。
人間がいなかったとしても、例えばウサギとか犬とかセミとか、ほかの生き物はちゃんと生きてるとして、彼ら人間以外の動物が歴史を認識することはあるだろうか。
つまり、例えば犬が土を掘っていたら何者かの骨が出てきたとする。その骨を見て、これはいったいどんな生き物の骨だろうか、なんでこんなところに埋まっていたんだろう、近くに手掛かりになりそうな遺物は埋まってないかな。なんて考えるだろうか。
何人かが首を横に振っている。
そうだね。たぶん犬はそんなこと考えそうにない。犬がいつも考えてることって、たぶん食料の確保とか、もっとご主人様にかわいがられたいとか、発情期になれば異性の存在とか、ほとんど自分に直接関係する周囲の問題ばかりだと思うんだ。未来のこととかご先祖様のこととかはあまり考えていそうにないよね。
自分自身とか、家族とか日本人全体とか、そういったものの成り立ちを知りたいと思ったり、未来の姿を想像したり不安に思ったりするのって、地球上にはたぶん人間しかいない。
ほかの生き物が持っていない、過去や未来に思いをはせる能力が歴史を生み出す原動力だ。
そう、歴史とは、過去の誰かが遺した手がかりをもとに創造された物語だといえる。
その際、もちろん事実がどうだったかはとても大事な指針になるけど、本当にそれが事実だったのかなんて、究極のところでは判断不可能だ。その証拠に、例えば教科書の記述はころころと変わっていく。
有名なところでは厩戸王。以前は何て呼ばれてなの?
聖徳太子?
正解。絶対に中学でやってる。そもそも「聖徳太子」という呼び名は後世につけられたもので、彼の功績とされている「憲法十七条」の制定とか「冠位十二階」の設置とか、本当に聖徳太子の功績かどうか、実は証拠がないんだ。だから最近は、実在がほぼ確定していて推古天皇の摂政を担っていた厩戸王の名で教科書に載るようになったんだ。
では、なぜ厩戸王が聖徳太子という一人で何でもやれちゃうようなスーパーマンとして称えられるようになったのか。
それは672年に勃発した壬申の乱が大きなきっかけだといわれている。天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が皇位継承を争った大事件だ。その結果、大海人皇子が勝ち、のちに天武天皇となる。
天武天皇は地方豪族の力を抑え、天皇中心の「中央集権国家」の形成を目指した。そのとき何よりも必要だったのは、天皇家が有史以来ずっとこの日本の中心であり続けたという「事実」であり、またいつの世にも優秀な人物を輩出してきた家柄であることの証明だったんだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、壬申の乱より50年位前に活躍した厩戸王。なにせ中国大陸を支配する隋の皇帝・煬帝に対し「日出る処の天子、書を日没する処の天子にいたす・・・」なんて手紙を送り、日本は中国と対等な力のある国だから、もう親分子分の関係で朝貢なんかしませんよと宣言しちゃった(時代の)人物だ。ならいっそのこと、この時代に行われた改革とか政策をみんな厩戸王の実績にしてしまい、名前も「聖徳太子」なんてかっこいいものに変えてしまえば、後世まで天皇家の権威を誇示できると考えたんじゃないだろうか。
こうして、聖徳太子の実在という歴史が作られたんだと思う。
でも、日本人は1400年間、ずっとこの「作られた歴史」を信じ、天皇家を他と代えられない最も高貴な家柄ととらえ、崇め奉ってきた。
もちろん、例えば江戸時代の天皇家にはそれほど大きな力はなかったようだけど、それでも徳川家に「征夷大将軍」の位を与えるのは天皇の役目であり、天皇がいなければ、誰も日本の支配者になれなかった。
ヒーローって大事だ。その人がいたおかげで、今の自分たちがあると思える。日本人はみんな、ずっと聖徳太子というヒーローが実在したと信じてきたし、彼の功績のおかげで、今の日本の基礎が形作られたと信じてきた。
この際、事実がどうかとか、あまり重要じゃない。自分たちのご先祖様はこんなにすごかったんだという安心感。それが大事なんだ。すごかったご先祖様の血を受け継いだ自分。そんな認識があるからこそ、日本に生まれたことを誇りに思えるんだ。
たぶんこういうメンタリティは、世界共通なんだと思う。
もちろん、歴史的事実を探求し続けることには大きな意義がある。本当のところはどうだったかが解明されれば、当時の人々がどんな気持ちで未来を見据え、事実に手を加えていったのかがわかるだろう。
よく言えば子孫が安心してご先祖様を敬えるように、悪く言えば自分たちの都合のいいように未来を操作するために、いつの時代も歴史は作られてきたんだ。
なんだ、歴史って嘘なんじゃん。そんなの覚える必要あんの?
そう思うのも当然だよね。でも、例えば夏目漱石の『坊ちゃん』とか『こころ』とかってドキュメンタリーか?夏目漱石の創作だよな。それでも読んだ多くの人が感銘を受けて、俺なんか『こころ』読んだときは涙出てきちゃったぜ。
太宰治の『人間失格』読んだときは「ああ、これ俺自身だ」なんてものすごく萎えた。
こういう文学作品は、たぶん作者が実際に経験した「歴史的事実」がまずあって、それをうまく加工して、自分の思い通りの作品に仕立て上げたんだと思う。
作者の実体験という「歴史的事実」が含まれているからこそ、読む人にリアリティを感じさせることができるし、読者自身が自分と登場人物とをだぶらせて、作品の中にのめりこんでいけるんだ。
心に残る文学作品には、必ず作者の「歴史的事実」が潜んでいるんだと思っている。
歴史も同じなんだと思う。ご先祖様たちが、泥をすすりながら必死になって生きてきた「歴史的事実」。彼らが子孫を生み育て、それが世代を越えて繰り返されていく中で、いつしか事実はあいまいとなり、一部は伝説となっていく。
忘れられたのち、何かをきっかけに「再発見」され、発見した時代の人々が過去を調べようとすることで、埋もれていた「事実」に再び光が当てられる。
そして断片的に見つかった「事実」から、新たな「歴史」が編まれるんだ。
こうして綴られた歴史は、僕ら日本人に共通の認識として定着していく。それが何度も繰り返された結果、今僕らが生きるこの瞬間に到達した。
そう、僕らは今、歴史の最先端に立っている。君らすべての後ろには、太古より続く長~い歴史が続いている。
その歴史に基づいて、例えば今君らが来ている制服がどうして「洋服」なのか、週に7時間も英語の勉強しなきゃならないのか。なんで俺はネクタイなんて暑苦しい首輪をはめてなきゃいけないのか。遅刻ばっかりしていると先生にこっぴどく怒られるのか。こういった生活が、当たり前のルールとなって認識されていくんだ。
歴史があるから、今の僕らの生活がある。それはおそらく世界中すべての国がそれぞれ持っている特別なものだ。
そして君たち自身が、歴史の最先端で、今まさに歴史を紡いでいっている。ほら、今この瞬間にも歴史が生まれた。なんて言っている最中にも歴史はどんどん生まれている。
多くの子供たちが、目をキラキラさせながら俺を見ている。机に突っ伏しちゃってるのもいるけれど。
こんな風に考えると、歴史が暗記するためだけの科目じゃないって思えるんじゃないかな。
むしろ、試験でいい点とるためだけに勉強するんじゃ、もったいないと思わない?
でも、将来役に立つの?
歴史は一人一人の人間が、まさに命がけで綴った人生そのものの塊だ。成功も失敗も、喜びも悲しみも、希望も絶望も、みんなこの塊の中に埋まっている。
だから、君たちがいつかとても深い悲しみに陥った時、絶望で未来が全く見えなくなってしまったとき、歴史が役に立つかもしれない。
ひょっとしたら過去の誰かが同じ体験をしていて、どう乗り越えていったのかが遺されているかもしれないよ。
挫折しない人間は、たぶんいない。いてもニーチェくらいなもんだろう。
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でも立ち直るには、自分ひとりの力では相当厳しい。
そんな時こそ、先人のお知恵が役に立つ。
だから、はっきり断言できる。歴史は将来役に立つと。
こんなことしゃべってる自分に酔いしれている。ナルシストだなあと、つくづく思う。
あまりに長い講釈だったので、まもなく終業のチャイムが鳴ってしまった。
挨拶が終わると、子供たちが何人か教卓を取り囲む。
こんな話してくれたの、今まで一人もいなかったと。
子どもたちの顔、いくぶん高揚して赤くなっている。
熱く語った甲斐があったというものである。