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【世界史】古代オリエント世界の統一その1 アッシリア。

アッシリア帝国

 

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これまで、メソポタミアとエジプトは互いに大きな影響を与え合いながらも、独自の文明圏を維持してきた。

しかし前7世紀、ティグリス・ユーフラテス川上流にあったアッシリアによって、ついに両文明圏が一つにまとまるのだ。

 

都市国家アッシュール。

アッシリアの最初の都はアッシュール都市国家の名称であると同時に、彼らが信仰する主神の名でもある。

アッシリア人がアッシュールを都として活躍し始めるのは、前3000年期末頃。ウル第三王朝が成立した頃のことだ。

 

メソポタミアは、様々な民族がその勢力圏を争った、まさに弱肉強食を絵に描いたような地域だったが、アッシリアは先のウル第三王朝や、その後勢力を拡大したミタンニ王国などに従属しながらも、1400年にわたってこの激動のメソポタミアで生き抜いてきた。

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地母神アッシュール。

アッシリアが生き延びてこれた理由の一つに、彼らの守護神の性格が挙げられる。

アッシリア人の都はアッシュールだが、守護神の名前もアッシュールである。つまり、土地そのものが神なのだ。

メソポタミアでは絶え間なく都市国家同士が戦いあっていた。そして勝利した都市国家は、敵を征服した証に負けた都市の神像を略奪するのである。

例えばハンムラビ法典

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/P1050763_Louvre_code_Hammurabi_face_rwk.JPG/364px-P1050763_Louvre_code_Hammurabi_face_rwk.JPG

ファイル:P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk.JPG - Wikipedia

てっぺんに描かれているのは、太陽神シャマシュ(向かって右の座ってる方)がハンムラビ(向かって左の立っている方)を王として認めているシーンである。

そしてこの石柱そのものが神像として祀られていた。

前12世紀、現イランにあったエラム王国がバビロンを征服した際、このハンムラビ法典が神像として略奪され、エラム王国の首都スサに安置された。

だからハンムラビ法典が発掘されたのはバビロンではなく、スサなのだ。1902年のことである。

 

しかし、アッシュールは土地そのものが神なので神像がない。だからアッシュールが征服されても神像が略奪できないのだ。

結局、他の民族に征服されて異民族の王がたったとしても、土地自体が神なので移動させられない。これが1400年も生き残れた大きな原因の一つ考えられている。

 

属国からの脱却。

アッシリアミタンニ王国の属国から脱却したのは前1350年頃のことだ。隣国のヒッタイト王国と同盟し、ミタンニを倒して独立を勝ち取った。

その後は順調に勢力を拡大し、周辺地域を属国化していった。

しかし前1200年のカタストロフィアッシリアも混乱し、一時衰退している。

 

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 とはいえ、混乱したのはアッシリアだけではない。エジプトもバビロニアも大いに衰退した。ヒッタイトにいたっては滅亡してしまっている。

特にヒッタイトの滅亡によって鉄器の製法が流出すると、この技術を学んだアッシリアは再びその勢力を拡大し始めるのだ。

 

サルゴン2世。

前722年、アッシリアサルゴン2世がシリア・パレスティナ連合軍を破り、ヘブライ人の国イスラエル王国を滅ぼした。

 

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Sargon_II_and_dignitary.jpg/344px-Sargon_II_and_dignitary.jpg

ファイル:Sargon II and dignitary.jpg - Wikipedia

レリーフの向かって(たぶん)右がサルゴン2世。

イスラエル王国を滅ぼしたのち、ヘブライ人はことごとく王国の各地に、バラバラにされて強制移住させられた。そしてそのまま歴史の闇に葬り去られてしまう。

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周辺民族が反乱をおこさないようにする政策の一つとして、強制捕囚政策というものがある。それを初めて組織的に、大々的に実施したのがアッシリアだった。

反抗しそうな民族をバラバラにいろんなところに移住させてしまうことで、まとまった行動をとれなくしてしまう政策である。
アッシリアは強力な軍事力を背景に、強圧的に人々を支配した。このような支配の方法を武断政治という。

 

遷都。

都市国家だった頃はアッシュールが都だったわけだが、都市国家から領域国家へと発展していく中で、歴代のアッシリア王は何度も遷都している。

しかしアッシュールはずっと宗教都市として栄えていたようである。

 

前704年にサルゴン2世の息子センナケリブが即位すると、さっそくニネヴェに遷都した。

これ以降、前609年にアッシリアが滅亡するまで、ずっとニネヴェが首都だった。

 

世界初の帝国。

センナケリブの息子エサルハドンの時代、ついにエジプトまで侵出した。前671年のことである。

史上初の帝国が誕生した瞬間である。

 

「帝国」とは、ここでは「いくつかの独自の文明を営んできた地域をまとめて支配する国」と定義する。

もっとも、本来は「皇帝が支配する国」のことであり、「皇帝」とは秦の始皇帝から始まる中国大陸を支配した人物を指す称号である。
またEmperorの訳語としての「皇帝」とするならば、ローマ帝国の皇帝(インペラトールということになる。
しかし高校世界史の教科書では、上記二つの皇帝以外が支配する、広範囲に版図を広げた国も「帝国」とひとくくりに呼んでいる。というわけで、教科書に沿ってあえて定義するならば、上記のようになるだろう。

 

最盛期そして滅亡。

アッシリアがもっとも発展したのは、前7世紀前半の王アッシュールバニパルの時代。

彼の最大の功績は、ニネヴェに大図書館を建設したことだろう。粘土板に書かれた楔形文字の文献が、大量に保管されていた。その数、実に25357冊。

後にアッシリアが滅びたとき、この大図書館も焼失してしまった。しかし消失してくれたおかげで、図書館に収められていた大量の文書が現代まで残されることになったのだ。

もしそれらの文書が紙や木の板などに書かれていたら、全部燃えてなくなっていたわけだが、楔形文字は主に粘土板に刻まれて残されている。だから、むしろ焼かれて瓦のように硬くなったのだ。

つまり、燃えてくれたおかげで当時のまましっかり保存されることになったのである。

 

しかし、アッシュールバニパルが死ぬと国力は急速に衰え、死後20年ほどで滅亡してしまう。前609年のことだった。
急速な衰退の原因として大きいと考えられているのが、先の「武断政治」である。

アッシリアは一生懸命、支配した民族が反抗しないように頑張ったが、バビロニアでもエジプトでも、反乱の目がなくなることは、ついぞなかった。

他民族の文化を否定し、理不尽な民族離散を強制する「武断政治」によって、征服された民族はみな憎悪の炎を燃やした。

支配地が広がれば広がるほど広範囲で反乱の火の手が上がり、それを鎮圧するのにさらに多くの兵を必要とするようになる。

それでも各地で一気に反乱が起きれば、それをすべて抑え込むのは不可能である。

こうして最後には首都ニネヴェが陥落し、帝国は滅亡した。

 

 

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