このお話は「カルデア・リディア・メディア・エジプト 四国鼎立」の続編です。
キュロス2世。
悪夢が正夢に。
メディア王アステュアゲスは、ある日悪夢を見た。娘のマンダネが放尿すると、全アジアが洪水に見舞われるという悪夢。
気味悪がった王は、娘を属国のペルシア王カンビュセスに嫁がせることにした。
ほどなくしてマンダネが赤ん坊を産んだと報せが入った。
すると、アステュアゲスはまた悪夢を見た。マンダネがぶどうの種を産むと、その種から芽が出て見る見るうちに成長し、ついに全アジアを覆うほど大きくなるという悪夢だ。
汗びっしょりになって飛び起きる王。忠臣・ハルパゴスを呼び出し、すぐさま娘の子を殺すよう命じた。
しかし、王の孫にあたる赤ん坊を殺すなんてできず、仕事を部下の羊飼いに擦り付けてしまった。
しかしこの羊飼い、偶然にもこの直前に、自分の息子が死んでいたのだ。そこで、王の孫を自分が引き取り、代わりに本当の息子の死体を差し出すことにした。
危うく命拾いした赤ん坊、羊飼いの元ですくすくと成長した。しかしこれも遺伝なのか、成長するにしたがって王としての品格が現れ、ついに隠しきれなくなってしまうのだった。
孫が生きていたと知ったアステュアゲスは激怒するが、ここまで成長してしまった自分の孫を殺すのもどうかと思い直し、子供はカンビュセスの元に返されることになった。
とはいえ、命令を守らなかったハルパゴスには罰を与えなければならない。
王はハルパゴスをディナーに誘った。メインディッシュは豪華な肉料理。ハルパゴスは存分にその肉の味を味わった。
晩さん会が終わるころ、王はハルパゴスに問うた。「今宵の肉料理はいかがだったか。」
「とても美味しゅうございました。」と素直に感謝の意を述べるハルパゴス。
「それはそうであろう、今そなたが食べた肉、お前の一人息子のなれの果てじゃ。さぞうまかっただろうな。」とハルパゴスをあざ笑うのだ。
王はハルパゴスの息子を密かにさらわせ、殺して料理して、ハルパゴスに食べさせたのである。
息子を食べさせられたハルパゴス。心中いかばかりだっただろう。しかしそのときはぐっと堪え、王への忠誠を改めて誓ったのだった。
カンビュセスの子はすくすくと成長した。やがて父の跡を継ぎ、ペルシアの王となった。その名もキュロス2世。
力を蓄えたペルシア人、ついにメディアに対して反乱を起こした。とはいえ、軍勢はそれほど多いわけではなかった。しかしこれの鎮圧に当たったのが、ハルパゴスだったのだ。
アステュアゲスから全幅の信頼を得ていたハルパゴスには、反乱鎮圧のための大軍が与えられた。
ハルパゴスはキュロス2世の下までいくと、その場でキュロス2世に対して忠誠を誓った。メディアを裏切ったのだ。そしてキュロス2世を新たな王として立て、メディアを滅ぼしてしまうのである。
こうして前550年、アケメネス朝ペルシアが誕生した。
予言の成就。
キュロス2世の征服事業はこれで終わらない。
前547年にはリディア王国を滅ぼし、前540年にはエラム王国を滅ぼしている。
そして前539年、ついに新バビロニア王国をも滅ぼした。
キュロス2世は強制移住させられていた諸民族を解放した。ユダの民も例外ではない。彼らは祖国カナンの地への帰還を許されたのだ。
帰還だけではない。宗教に関してとても寛大だったキュロス2世、ユダの民にイェルサレム神殿の再建を命じたのだ。
ユダの民が待ち望んだメシア(救世主)が本当に出現した瞬間だった。
エジプト末期王朝は2代目カンビュセス2世の時代、前525年に征服された。
こうして全オリエント世界がアケメネス朝の支配下に置かれることとなった。
ダレイオス1世。
ファイル:Darius In Parse.JPG - Wikipedia
アケメネス朝の最盛期は第3代ダレイオス1世の時代に訪れた。その版図は、西はエーゲ海から東はインダス川流域にいたるきわめて広大な領域であった。
版図を最大にしただけでなく、帝国の行政整備が完成したのも彼の時代だ。
行政整備。
巨大な版図を支配するため、メディア王国がはじめたサトラップ制を継承した。
全国を20の州に分け、各州にサトラップと呼ばれる「知事」を派遣して統治した。
また、遠く離れた任地で働くサトラップがしっかり仕事をしているか監視するため、王の目・王の耳と呼ばれる監察官を派遣していた。
目的別の都。
アケメネス朝には首都と呼べる都がいくつかあった。政治的中心都市は、エラム王国の都だったスサである。
またメディア王国の都だったエクバタナは高原地帯にあったので、夏の都として利用されていた。
そして冬には新バビロニア王国の都バビロンが用いられたという。
加えてダレイオス1世は、新たな、主に宗教儀式を執り行うための都としてペルセポリスを建設した。
File:Persepolis 2014.jpg - Wikimedia Commons
ペルセポリスは主に王が居住する都でもあったので、帝国各地の属国民がこぞって朝貢に赴いた。
全ての道はペルセポリスに通ず。
巨大な帝国を維持するためには、帝国の辺境にも迅速に軍団を派遣する必要がある。また同時に帝国中の情報が王の耳に届かなければならない。
だから巨大な版図を持った国は、どこも道路の整備に力を入れた。初めてオリエントを統一したアッシリア帝国もしかり。重要な都市を舗装された道路で結んでいた。
ダレイオス1世はアッシリアが残したこの道を改めてつなぎ合わせ、全長2700㎞にも及ぶ長大なものへと作り替えた。
これがいわゆる王の道である。
「王の道」の始点は行政上の首都スサ。そして終点は、かつてのリディア王国の首都サルデス。
要所となる111か所に「駅」が置かれ、普通なら90日かかるこの2700㎞を、早馬を飛ばせばわずか9日で踏破できるようになったという。
このラインを主軸とし、各重要都市へと道は枝分かれしていく。
貢物を持参してアケメネス朝の王を訪れる属国民は、この「王の道」をたどってペルセポリスに向かった。
いつしかこんなことわざが生まれた。全ての道はペルセポリスに通ず。
有名な「全ての道はローマに通ず」の原型である。
長命の秘訣。
ペルシア人は晴れて支配者集団となったが、もともと少数の上に、文字さえ知らなかった「野蛮人」であった。
そんな少数派が、人口も多く、しかも文明の先進国を支配するためには、先住民の風習や信仰の自由を抑圧せず、むしろ積極的に認めるしかなかった。いわゆる寛容政策を実施したのである。
ユダの民を解放し、なおかつ彼らの信仰を認めたのが、まさにこの「寛容政策」の代表例である。
「反面教師」はすでに存在していた。アッシリアである。強制移住に代表されるようないわゆる武断政治を行ったがゆえに、結局各地の反乱を抑えることができず、最盛期から50年ほどで滅亡してしまった。
アケメネス朝はその失敗を学び、有効な統治方法を考え出したのだ。これが大きな要因となって、アケメネス朝は200年以上も長生きすることができたのだ。
善悪二元論。
アケメネス朝が成立した前6世紀には、ペルシア人の大半がゾロアスター教の信者だった。
ゾロアスター教の経典はアヴェスターという。
だからダレイオス1世もゾロアスター教に帰依している。ただし、この時点でアケメネス朝の国教となったわけではないようである。
ゾロアスターとは、この宗教を創始した教祖様の名前。「世界最古の預言者」とされている。
しかし彼が生きて活躍した年代は、前1200年から前1000年頃にさかのぼる説や、前7世紀頃に限定するものもあり、実在はしていたようだが、まだいろいろとわからないところの多い人物である。
ちなみにドイツの哲学者ニーチェが著した『ツァラトゥストラはかく語り』のツァラトゥストラとは、ゾロアスターのことである。
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この世は光の神アフラ=マズダと闇の神アーリマンの絶え間ない闘争の中にあって、近いうちに最終戦争が始まるという。
もしアーリマンが勝ってしまうと、この世は闇に覆われてしまうので、光の存在である我ら人類は、良い行いをしてアフラ=マズダを応援しなければならないのだ、という教義である。
善と悪の絶え間ない戦いという、いわゆる「善悪二元論」が主軸となっている。
光の神アフラ=マズダを象徴するものは炎である。だからゾロアスター教の信者は炎を神像として崇め奉る。
また最終戦争が始まると、救世主サオシュヤントが現れて最後の審判が行われる。これにパスした善良な人間が、最終戦争後の、アフラ=マズダが統治する世界で生きることを許されるという。
このような、ゾロアスター教で唱えられた終末思想は、そのままユダヤ教に取り入れられ、そしてユダヤ教から派生したキリスト教にも受け継がれた。
また日本で夏に行われる、お盆のときに炎をまたぐ儀式は、もともと「ウルバン」と呼ばれるゾロアスター教の儀式である。ウルバンがなまって盂蘭盆会(うらぼんえ)になったという。
楔形文字の解読にも貢献。
ペルセポリスの遺跡からは多数の碑文が発見されている。この、いわゆるペルセポリス碑文を研究して楔形文字の解読に貢献したのが、ドイツ人のグローテフェント。1802年のことである。
しかしこの研究結果は大学に拒否されてしまい、日の目を見ることなく埋没していしまった。
その後、イギリス人のローリンソンがダレイオス1世の功績を讃えたベヒストゥーン碑文を解読し、グローテフェントの仕事が間違っていなかったことを証明している。1846年から1852年の間に解読が進められた。
ファイル:Bisotun Iran Relief Achamenid Period.JPG - Wikipedia
レリーフの中心で浮いているのがアフラ=マズダ。向かって左から3番目の一回り大きい人物がダレイオス1世。
信じられないような敗北も。
前5世紀初め、帝国の西の果て、アナトリア半島の西岸部イオニア地方で、ギリシア人たちが反乱を引き起こした。
これを鎮圧すべく始められたのがペルシア戦争である。
しかしこの作戦は、圧倒的な戦力さにもかかわらず、大失敗に終わった。
そして前486年、戦いの決着を見ないまま、ダレイオス1世は死んでしまった。
ペルシア戦争はダレイオス1世の子クセルクセス1世に受け継がれたが、こちらも大敗北を喫している。
ペルシア戦争の詳細は、また別の記事で紹介したい。
あっけない滅亡。
第12代王ダレイオス3世の時代、前330年、ギリシア北方にあるマケドニア王国のアレクサンドロス大王がギリシア人を従えてペルシア遠征を敢行した。
そしてアケメネス朝はあっけなく滅亡してしまった。
この滅亡劇に関しても、また別の記事で紹介したい。
こうご期待!