このお話は「2月に解雇通告はルール違反だと思う」の続編です。
嫁について。
一応芸能人だった。
嫁は売れないナレーターだった。
俺が結婚しようと思いついたのも、彼女が一応は芸能人様であり、会話もなんだか芝居がかっているというか、結構センスあるなと思うようなところがあったからだ。
だから、この女おもしれえなんてうっかり思ってしまったんだろう。酒の勢いで結婚してしまった。
本当に売れてなくて、月に1本でも仕事が入ればいいくらいの、ほとんどおまけ程度の「本職」だった。
また、ある劇団に入っていて、こちらも収入なんかまったくなく、むしろ持ち出しでぎりぎり維持できているくらいの弱小勢力だった。
そんな状態だから、「副業」として派遣会社に登録していた。収入はほとんどこちらのみだったのだが。
息子が生後3か月の時に高熱を発してしまい、彼が生まれつきの病気を抱えていることが発覚した。VUR(膀胱尿管逆流症)という、おっしこをうまく排出できない病気である。
膀胱に尿がたまってしまい、それが尿管を逆流するので腎臓が炎症を起こす。腎盂腎炎という。
この発覚を機に、まったく芽の出そうにない芸能界から足を洗い、まっとうな「派遣社員」としての新たな人生を歩みだした。
それはそれで、嫁にとっては大変な決意だったと思う。
息子は1歳の時に、延べ8時間にわたる大手術を耐えきり、晴れて生まれつきの病気から解放された。
これ以降、息子は本当に元気でやんちゃな子に育っていった。
自分の仕事くらいしっかりやってくれと言いたいが。
我が家は東京スカイツリーの間近にある賃貸マンションの9階。
3DKの広い部屋だった。親子3人で住むには広すぎるくらいである。
部屋の掃除は俺に任されていたようだ。というのも、嫁は一切掃除をしない女だったからだ。そんな契約を結んだ覚えはないのだが。
嫁の仕事は、洗濯物を洗うこと、食事の用意、トイレの掃除だったと思う。
一方、俺の任務は(たぶん)部屋の掃除、使った食器を洗う、洗った洗濯物をたたむくらいか。
洗濯物は、いつも脱衣所に山のように積まれていた。
たまに洗ってくれるのだが、ベランダに干したまま何日も、雨が降っても放置している。
疲れ切って22時くらいに帰宅すると、相変わらず干しっぱなしなので、俺が回収してもう一回脱衣所へ運んでいく。
きれいな衣服がなくなっていくので、その都度買い足していった。
トイレを洗わずに放置しておくとどうなるかご存じだろうか。
黒い、いわゆる「汚れの輪っか」ができるでしょう。あれ、放っておくとワカメみたいに、水面を這うように中心に向かって成長するのだ。
おしっこで攻撃すると、ぶちぶちとちぎれて沈んでいく。
しかし次の日にはちゃんと復活している。なかなか生命力の強いタフガイである。
トイレの掃除は嫁の担当だったはずなので、しばらく我慢して掃除してくれるのを待っているのだが、1か月近くたってもやってくれないので、結局俺がキレイにする羽目になる。
食事の用意? たいがいはスーパーで買ってきたパック。
そして嫁が大好きなこんにゃくを醤油でソテーしたもの。
俺の体を気遣ってくれていたらしい。カロリーの低いものを「厳選」した結果、彼女の大好物に行きついたという。
おかげさまで、体重はみるみる減っていった。
ここまでくると、糖尿で減っているのか夕飯の貧相さで減っているのか、よくわからなくなってくる。
典型的な片づけられない女。大好物の漫画を買ってきては、読み切ったものを部屋の隅に放っておく。
そのうち本の山ができ、高さも1mくらいになっていた。
何度言っても片づけてくれない。
そして怒鳴ればおびえたような顔をして部屋を出ていく。まるで俺が悪いみたいじゃないか。
遅くに帰宅することが多いので、帰ってきたときにはすでに嫁と息子がスヤスヤ寝ていることもある。
俺も疲れ切っているので寝巻に着替えてすぐベッドインするのだが、ある日、布団に入ったら尻のあたりがざらっとした。
びっくりして手で探ってみると、かなりの量の砂が布団の上にまかれていた。
どうやら、保育園で元気に遊んできた息子、ズボンのポケットに砂を入れていたようだ。
そのまま忘れて帰宅して、風呂にも入らず、いや入れさせてもらえず、パジャマに着替えさせられることもなく、泥だらけのまま布団で寝かされていたのだ。
そりゃあ、砂だってポケットの中でじっとしていてはくれないだろう。布団の上は砂まみれである。
それでも嫁は何も気にすることなくぐっすり寝ていた。とりあえずたたき起こし(手も足も出してないが)、驚きおびえる嫁を尻目に、布団の上に掃除機をかけた。
気が付けばゴロゴロと寝転がっていつまでも漫画を読みふけっている。
俺は子供とじゃれあいながら、近くに横たわる、まるでナマコとかトドとかといった海の生き物にしか見えなくなった嫁に「飯作ってくれないか」と懇願する。
漫画家になりたかったそうで。
以上、一方的な、俺の目から見た嫁への感想である。
もちろん、俺が完璧な旦那を演じていたかといえば、お世辞にも及第点は与えられないだろう。
それでも、息子がかわいいから、大事にしたいから、ぐっと我慢してこの「海の生き物」と死ぬまで一緒にいようと決意していたのだ。
専任になって最初の1年が過ぎたころ、事務長に呼び出されて「3年契約だったことにしてくれ。」と契約内容の変更を迫られた話を以前した。
その直後、突然「海の生き物」が言い出した「わたし、前から漫画家になるのが夢だったの。家事とか今まで通りちゃんとやるから(?!)漫画描いてもいい?」と。
「(そうか、今まで通りの家事なんだな。その上、漫画を描きたいと。昼は派遣でどっかの会社で働いているんだろう。漫画なんか描く時間あるんだろうか)いいんじゃないか。がんばってみろよ。」と、あまり深く考えずに適当に認めてやった。
漫画を描き始めるのは息子が寝静まってから。23時くらいから始めることが多かったと思う。
結構値の張るお絵かきソフトを買い込んで、夜な夜なパソコン前に陣取る「海の生き物」。
どんな漫画を描いてるのか聞いてみたら、BL(ボーイズラブ)というジャンルだと教えてくれた。
簡単に言えば、女が描くホモ漫画である。さすがに「それは勘弁してくれ、もっと他にいろいろ描けるものがあるだろう。息子が見たらどうするんだ。」と方針転換を強く願った。
しかし「別にあの子がこれ見て同性愛者になってもいいじゃん。あたしだって昔女と付き合ってたし。あの子が寝てから描いてるんだから、見られることもないでしょ。」と一向に話を聞き入れてくれない。
別に性差別をしようとは思わない。仮に息子にその気があるなら、それはそれでよく息子と相談したうえで、改めて受け入れてやることもあるかもしれない。しかし、なにも母親が息子に同性愛者への近道を与える必要もないだろう。
本当に納得できないが、嫁が意志を変えることはないようだ。
クビを予告されてしまった直後ということもあり、こちらも大きく出られなかった。
結局、嫁は毎晩「ホモ漫画」を描き続けることとなった。
睡眠はしっかりとらないといけません。
毎日続けられる夜更かしは、すぐにその効果を発揮し始めた。
朝、俺が出勤するとき、まったく起きてこない。
息子も起きてきて、二人で歯磨きしたり、朝のシャワーで遊んだり、それはそれで息子と緊密なコミュニケーションがとれるチャンスではあったが、息子の保育園への準備もしなければならない。
たぶん明け方近くまで「ホモ漫画」描いて眠いのは分かっているが、何とか起きてもらって手伝ってもらった。
その最中も、うつろな、何も見ていないような目をして座り込んでいることが多かった。
仕事場での理不尽なストレス。家に帰れば「海の生き物」が、俺を無言で責めさいなむ。
生きる希望は子供たちしかいない。学校でも我が家でも。
そのうち、日曜日まで執筆活動に費やすようになった。
俺と息子にはどこかへ遊びに行ってもらい、嫁は一人でシコシコと「ホモ漫画」を描くのだ。
土曜日から泊まり込みで実家に帰ることもしばしば。
そのたびに、本当は夫婦でどこかに出かける予定だった両親に無理をさせてしまった。
そんな生活が1年近く続いた頃、ある事に気が付いた。
嫁、目が覚めるカフェインたっぷりのドリンクを大量に飲んでいたのだ。
この手の薬、服用し続けるとだんだん耐性ができてきて効かなくなってくる。
だからさらに強いやつに手を出すようになる。
その後は悪循環。高頻度で強いやつを大量に服用することになる。
そりゃあ、目だってうつろになるだろう。
きっと、薬が切れているときは、目覚めていてもほとんど何も思考していないんじゃないだろうか。
不穏な空気が漂っている。
きっと、近いうちに取り返しのつかないことが起きそうな予感がする。
それなのに、俺には事態を打開する方法が思いつかない。
思いつかないまま、ついにその日が来てしまった。
この話は次回に続く。