このお話は「食っても食っても」の続編です。
放課後、指定されたファミリーレストランへと向かった。
2年生の部長のお母さまを筆頭に、引退した3年生のお母さま方が3名、2年生のお母さま方が3名、合計6名が待ち受けていた。
席へ着くが否や「A先生(長年バレー部を指導していた体育教師)が疾走しました」と。
最初は何をおっしゃっているのか理解できなかったが、そういえば、新学期が始まったのにその姿を見ていない。
俺は部活の監督で毎日学校に来ていたが、この1週間、部活にすら来ていなかったのだ。1年中部活指導で疲れ切っているので、きっとまとめてお休みもらったんだろう、くらいにしか思っていなかった。
俺には何の断りもなかったが、いかんせん新入りである。雑に扱われても「そんなもんか」程度である。
そこからは「何か知っていることはないか」「学校はどこまで知っているのか」などなど矢継ぎ早に尋問される。
とはいえ、寝耳に水とはまさにこのことで、むしろ俺のほうが詳細を知りたいくらいだった。
尋問は2時間ほど続いたが、俺が何も知らされていないことを知ったお母さま方、これ以降はむしろ同情して慰めてくださった。あとは今後どうするのか、学校にも事情を聴きながら対策を練るとして、やっと解放された。
翌日、さっそく校長に呼ばれる。
「A先生と連絡が取れない。何か知らないか。」そんな質問から始まったが、その後はだんだんバレー部自体への不満をぶつけるような話の展開となっていった。
その学校のバレー部はいわゆる「強化部」であり、他の部活に優先して特別に練習時間を多く与えられていた。
「バレー特待」という名目で、多くの部員が授業料を免除されていたり、大幅に減額されていた。
しかしここ十数年ずっと予選敗退。これでは指導者の資質を問われても仕方ないだろう。
だから、A先生へのプレッシャーも大変なものだったに近いない。よく食事にも誘われ、酒飲みながらこれまでの「武勇伝」を聞かされたものだ。しかし同時に、毎回決まって結果の出せない自分を責めていた。
授業料は取れないうえに、十数年結果が出せなくて広報でも使えないとなれば、学校経営だってガタガタになる。
実際、財政は破たん寸前だったようだ。
校長との面談でも、最後は強化部から外す話へと進んでいた。
とはいえ、そもそもつい5か月前に赴任したばかり。バレーなんてルールすら最近知ったばかりの俺が、いったい何を知ってて何ができるかなんて聞かれても、「ワカリマセン。」と答えるか「スミマセン。」と謝るくらいしかできないではないか。
ぐったりして校長室から出た。
職員室に戻ると、教頭からご指名。
二人で応接室へ向かうと、事務長が待ち構えていた。二人の口から「とりあえず、指導できる人員を探すから、それまでお前ひとりでバレー部を指導してくれ。」と告げられた。
そんなの無理だ「ならわたくしより、体育の先生とかバレーの経験がある先生に代わっていただいたほうがいいと思うんですが。」
「いや、お前がやるんだよ。」と、肩をがっしりつかまれた。
不安になっているのは、俺以上に子供たちだ。とりあえず「A先生、突然体壊してしまい、入院なされた。ちょっと深刻な状態なので、お見舞いとか行かないでほしい。それまで不安だし心配だろうが、どうか俺を信じて頑張ってほしい。」なんて適当な言い訳をして子供たちを励ました。
担任業務に公務分掌、そして部活指導。考えてみれば、教員の仕事ほどブラックなものもない。これだけたくさんの仕事を一人でこなさなければならないのだ。
多くの先生方が、いい加減に仕事を流すようになるのもわからないでもない。
逃げてしまうのは簡単だ。しかし、逃げた先に何が待ち受けているのか。たぶん後悔の念だけだろう。
やるしかないのだ。
とはいえ、部活指導といっても子供たちに自主練習させておくしかない。部長にお願いし、子供たちで練習のメニューをつくってもらい、それで頑張ってもらうしかなかった。
平日は朝7時から夜10時までずっと学校で仕事。
最後に職員室の鍵を閉めて帰る優越感。
土曜は19時くらいには帰れた。
しかし日曜も朝7時から部活指導。
結局丸々3か月、一日も休むことなく働いていた。
精神的にも肉体的にも相当追い詰められていた。
授業のチャイムが鳴って教室に向かおうと歩いていると、廊下が時計と反対周りにねじれていく。自分も回ってしまうので、壁によりかかるようにして進んでいると、いつの間にか廊下は元通りになる。
毎時間、廊下がねじれて見えるようになった。
ご父兄をお呼びして三者面談をしなければならない。
しかし、お母さまを目に前にして、俺の瞼は否応なしに閉じていく。
必死に意識を保とうとするが、ついに落ちてしまった。
ほんの少しの時間だったようだが、お母さまと生徒に揺り起こされ、はっとして目が覚めた。
これはさすがにまずいと思うのだが、休んで医者に行く時間なんかない。
必死で一日一日をしのいでいった。
しかし、ある日の授業中、突然体中がかゆくなってきた。
腕を見ると、ちょうど、蚊に刺された跡って膨らむじゃないか。あれの特大サイズのやつが腕中にあって隣同士つながったような状態になっていた。いわゆるじんましんである。
トイレで確認したが、ほぼ体中にそんなのが現れていた。
耐えられないほどのかゆみ。
慌てて教頭に腕を見せ、体中この状態だと告げた。教頭は「すぐ病院に行け。後のことは気にするな。」と言ってくださったので、急いで最寄りの皮膚科病院へ。
「ストレスですね。」と、あっさり医者から告げられた。
そして特大の注射を一本打たれ、何種類かの薬を処方されて帰された。
やっぱりストレスなのか。よかった、何か取り返しのつかない病気じゃなくて。
原因が分かったので、急いで学校に戻った。
すると教頭が「今日はもう帰っていい。明日からまた頼むよ。」と言ってくださったので、お言葉に甘えてこの日は早く帰宅した。
とはいえ、自分でもはっきりわかっていた。もう心身ともに限界である。
もう寒くなってきたころ、事務長からバレーの指導者が見つかったと告げられた。大学を今年卒業した、就職浪人中の背の高い青年だった。
ありがたいことに、これ以降、日曜日は青年に部活指導を任せられるようになった。
とはいえ、練習試合とか大会とか、結局ひと月に休める日は3回あればいいほうだった。
ずっと忙しくて気にしていなかったが、気が付くと、ズボンのぶかぶかが広くなっていた。
手のひらを縦にして入れても、まだ余裕があるのだ。
改めて体重を測ってみた。
58キロを割っている。
いくらなんでも痩せすぎである。
医者に行ったほうがいいだろうか、でも、そんな時間とれないよな。
冬休みを迎えようとしたころ、校長から呼ばれた。
この話は次回へ続く。