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【糖尿病】仕事を干される

このお話は「『クビ』へのカウントダウンがはじまる」の続編です。

 

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冬の合宿は一時のオアシス。

冬休みは青年コーチのコネクションで、A先生のコネクションとは別の合同合宿に参加させてもらえた。

各地から10校以上が集まり、かなり本気で1週間近く練習試合が続けられる。

合宿は楽しい。もちろん、学校での仕事だって、授業でも部活顧問でも何でもいいが、子供たちと絡んでいる間はとても楽しい。

しばらく息子に会えなくなるのはつらいが、子供たちと朝から晩まで共に過ごし、腹の底から大声出して子供たちを叱咤激励する毎日。

結構なストレス解消にもなる。

夜は夜で、合宿に集まった先生方と酒飲んで談笑しながら練習試合の組み合わせなど打ち合わせる。

へとへとに疲れたが、なんとも充実した気持ちで東京に帰ってきた。

 

結果なんか出せないよ。

3学期が始まると、ことあるごとに校長室に呼ばれるようになった。

要件はだいたいバレー部のことだが、そもそもバレーのことなんか顧問やるまでルールすら知らなかったんだ。いろいろ聞かれたって答えられるわけがない。

そしてバレー特待の子供たちをどうやって集めたかなんて聞かれたが、そんなのあんたの方がよく知ってるだろう。俺がこの学校に来る前の話なんだから。

答えられない質問をたびたび投げつけられ、答えられないと、校長はイライラしたようにため息をつきながら「もう結構です。」と追い返す。

いくらなんでも精神的に厳しい。

 

記憶だってなくなるさ。

1月も終わろうとした頃、不思議なことが起こった。

いつものように、21時過ぎに帰路に就く。

いつものように座れず、吊革につかまって乗り換えの駅まで。

ふと気が付く。2駅先まで来てしまったと。

おかしい、俺はちゃんと起きていて、しかも立っていたんだ。それなのに、なんで2駅先にいるんだ?

しょんぼりしながら2駅戻って乗り換え、無事自宅に到着。

しかしこの後、2月中に同じ現象が3回発生した。

確かに、帰宅の電車内で何を考えていたか、何も思い出せない。

まるで、起きたまま夢でも見ているような状態なのだ。

 

そういえば、仕事中の記憶もほとんど残っていない。

あまりにやることが多すぎるので、しっかりメモを取って、その順番に従って仕事をこなしている。

そしてクリアしたミッションには線を引いて消していく。

しかし、翌日メモを見た時、線が引かれて完了したはずのミッションを、どうやってクリアしたのか覚えていない。

記憶がほとんど残っていないのだ。

 

さて、「結果」ですが。

2月も終わりに近づき、学年末試験を作成しなければならない。

それが終われば、今度は成績表の作成だ。

だんだん年度末が近づいてくる。

しかし、その間もバレー部ではいくつも問題が起きている。

こんな状態で部活を続けているのだ。子供たちだって不安だろうし、満足に練習できないうえに、もう来年度からは「次の大会で結果が出せないなら、強化部からはずす」とまで宣言されてしまっているのだ。

ちなみに「結果」とは春の高校バレーに出場することである。

練習できないうえに結果を出せ? 冗談にしたって笑えない。

子供たちはストレスを抱え、それを発散させるように、たびたび問題行動を起こすようになっていた。

ある子は万引き。ある子は制服着たまま六本木で補導される。部員同士のいじめも発覚。

そのたびに俺は校長室へ。そして監督能力のなさを指摘され、責任はどうとるのかと問い詰められる。

責任? 謝る以外に何かあるのだろうか。それとも辞職願でも出せと?

 

そりゃあ、記憶だって飛ぶわけだ。

そして当然ながら、「結果」は出せなかった。

4月から、バレー部は強化部でなくなると、容赦なく断言された。

 

仕事を干される。

3月の終わり、次年度の人事が発表された。

俺はバレー部の顧問も、クラス担任も外されていた。そして1年生の副担任となった。

公務分掌は「庶務」。つまり、清掃用具関連の管理である。

担当する授業時間数は、なんと週12単位。いくらなんでも少なすぎる。

 

今生の別れというわけではないが。

3月末、バレー部の子たちに顧問から外れることを告知しなければならない。

部活の後に全員整列したところで話し始めた。

話しているうちに、今までの思い出が一気にあふれてきた。

1年前、突然顧問になって必死の思いでルールを覚え始めたころ。

それから、子供たちに邪魔者扱いされながらも、何とか仲間に入れてもらおうと「壁打ち148回」もやり遂げたこと。

夏の合同合宿。

突然のA先生の失踪と、その後のパニック状態。

それでも、子供たちは頼りない俺にすがるしかなくて、部長なんか毎日のように、泣きながら不安を漏らしていた。

そんな、あまりにも理不尽な状況下でも、希望を捨てずに頑張ってきた子供たちの顔を見ていたら、どうにも涙が止まらなくなってしまった。

もう、恥も外聞もなく、わあわあと泣き崩れてしまった。

子供たちも一緒に泣いてくれている。

本当にいとおしい子供たち。

しかし、もうお前たちの指導はできない。あとは、正規採用となった青年コーチに託そう。

 

「窓際族」っていうんでしょうか。

実際、4月からの暇さ加減はひどいものだった。

曜日によっては、丸一日何もすることがない。

午後、昼飯を食った後には相変わらず強烈な睡魔が襲ってくるが、授業もないし、何か他に仕事もないので、本気で睡魔と戦うだけの日が週に3日ほどあった。

放課後は適当に校舎内をぶらぶらして1年生と遭遇したら、しばらく子供たちの愚痴を聞いてやり、それで時間をつぶす。

ただし、帰りはとても早くなった。

日が暮れる頃にはとっとと帰路に就けた。これがまた問題になるのだが。

昨年度の多忙ぶりに慣れ切ってしまっていたので、日没とともに帰るなんて、初めのころはとても不安になったものである。

また同時に思う。本当はもっと仕事がしたいと。

昨年度の異常な仕事量でも、それ自体は特に苦ではなかった。

辛かったのは、バレー部の子たちを絶望させることであり、校長から理不尽に責任を押し付けられることだった。

 

仕事場にいるのにずっと仕事がない。これがどれだけ不安をあおることか。

何かしなきゃと思って考えた結果、自分で歴史地図を作ることにしたのだ。

 

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エストは順調に細くなっている。もう、ベルトの穴は一番奥でも緩くなっていた。

仕方ないので、思い切ってベルト自体を切って調整した。

 

そして、校長からは新たな難癖をつけられるようになった。

 

この話は次回へ続く。

 

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