このお話は「廊下をすれ違う女子20人に連続で『キモい』と言われる幸せ」の続編です。
前回は教員をやっていく上での心構えとして、ずっと笑顔でいることが大事だと主張してみた。
今回からしばらく、子供たちと関わるときにやってしまいがちな、残念な行為について考えてみたい。
ただし、これは誰かそういう「残念な」方をあげつらってからかうのが目的なのではなく、あくまで自戒の意味を込めて書いてみたいと思う。
自分を上司や支配者かなんかと勘違いしていないか。
先生と呼んでくれるのはありがたいことだけど。
自分ら教員は、まるで当たり前のように先生と呼ばれて仕事している。だから当たり前のように、一人称も先生はと名乗る方が大半である。
かくいう自分も毎日「先生」と呼ばれているし、教員同士はまず間違いなく「先生」と呼び合っている。たまにフランクな雰囲気の学校では「〇〇さん」と呼び合うところもあったが。
また、子供たちが誰かほかの先生のことを呼び捨てにしていたら「先生」とつけなさいと強めに注意する。
子供たちの話を学食なんかで聞いていると、だんだん教員に対する不満が出てきて、気に入らない先生方をつい呼び捨てにしてしまうものである。
しかし、例えば子供たちが自分のことを「〇〇ちゃん」とか「かっぱちゃん」なんて感じでフランクに呼んでくれたり、極端な場合、自分の目の前で呼び捨てにしたとしても、「先生と呼べ」とは絶対に指導しない。さすがに呼び捨てにはしかめっ面しながら「呼び捨てはちょっと」くらいは言うが。続けられると呼び捨てに慣れてしまうのは否めない。気を付けないと。
なぜなら、一般に先生とは敬称として用いられる単語であり、「~様」とか「~閣下」なんて言っているのと同じだからだ。
自分で『〇〇様』と言えとか『〇〇閣下』と呼べなんて胸張って言ったら、たぶん周囲は呆れるんじゃないだろうか。
なら、それが「〇〇先生」だったらいいのかと言えば、自分には「〇〇様」と同じにしか聞こえないのだ。
自分みたいな卑小な生き物が先生様とお呼びなんておこがましいことを言えるはずもない。
偉くなったと勘違いしてないか。
これもユニホーム効果の一つだと思う。例えば、何の免許も資格も持ってないけど警察官の服をしばらく着ることになった人は、いつの間にか本当の警察官になった気になってしまい、まるで本当の警察官のようにふるまい始める。
ともすれば、その権威をかさに、周囲に威張り散らし始めるのだ。
教員も同じなんだと思う。大した実力もないのに、子供たちや保護者様から毎日「先生」と呼ばれているうちに、なんだか自分はとても高貴な人間なんじゃないかと勘違いし始めるのだ。
大学出たての、学生に毛が生えた程度の若造でさえ、毎日「先生」呼ばわりされてしまう。
そのうち彼らの中には「俺は偉いんだから、挨拶はされるものであってするものではない」なんて勘違いをし始めるものも現れ始める。
挨拶できない若造は本当に多い。
そして症状が進むと「さあ今日もあの馬鹿どもに知識を授けてやろう。まったく物覚えの悪いガキばっかりで困ったものだ」なんて、もはや神にでもなったかのような態度を取り始める。
実際、職員室であるクラス担任が子供たちを「ほんと馬鹿ばっかり」「あの馬鹿ども全部入れ替えたらどんなに楽だろう」なんて「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」と連呼する教員もいた。
うっかりにらみつけてしまったら、さすがに言い過ぎたかと顔を赤らめてどっか行ってしまったが。
謙虚な気持ちを忘れてはならない。
こんな調子で、子供たちと心を通わせながら仕事するなんて不可能だ。
子供たちだって、そういう無駄に偉そうな教員がただの張子の虎だってことくらい簡単に見抜くし、見抜かれたら最後、卒業した後まで影で馬鹿にされ続けることになる。
気が付いたら、教員も生徒も互いに互いを馬鹿にしながら毎日顔突き合わせて授業やったり部活やったりしているのだ。
いったい、これで誰が幸せになれるんだろう。
ここで一つ決意表明を。
「先生」という敬称は、もし子供たちが率先してそう呼んでくれるなら、ありがたく頂戴いたします。
しかし、自分から「先生と呼べ」とは口が裂けても申しません。
そして他の先生方が呼び捨てされていたら、迷わず「先生」つけろと厳しく指導します。
そして子供たちが、自分のいないところで、憎々しげに呼び捨てにしながら「あいつほんとむかつく。」とか「あんなクズがなんで教師やってんの。」なんて罵倒されないよう、本当の意味で子供たちが受け入れて信頼してくれる教員になるために切磋琢磨し続けます。
「先生」と呼ばれても「恐縮」しないくらいの実力、早く身に着けたいものだ。
このシリーズ、結構長い連載になりそうな気がしてきた。
お楽しみに。