このお話は「学食とか放課後によくある子供たちとの会話から見えてくる教師像」の続編です。
本当にずっと笑われている。
どこの学校でも見られる、だいたい同じ新年度スタート時の風景。
4月、各クラスで最初の授業を一通り終えたころから、廊下を歩いていると自分を見かけた子供たちがクスクスと笑い出す。
別にサイドステップかましながら歩いているわけでもなく、変な歌口ずさんでいるわけでもない。自分としては、いつも通りごく普通に歩いているだけ・・・のつもりなのだが。何がおかしいのだろう。
「いつもそうなんだけどさ、俺が歩いてるとみんな笑うんだよ。なんでだ?」とすれ違いざまに質問すると、だいたいみんな「キャハハハハ。キモい~」くらいの返答で終わてしまう。
それじゃあ答えになってないじゃないか。
とはいえ、その笑いは悪意のあるものではないし、自分を見るその瞳は興味深そうにキラキラ輝いている。
そう、例えて言うなら、珍しい生き物を発見したときのワクワクした目なのだ。
「あ、いた! せんせ~~」なんて遠くから手を振ってくる子も、ほぼ毎休み時間遭遇する。
「いた」ってなんだよ。
エスカレートする「好意的嫌がらせ」。
ゴールデンウイークを過ぎたころからは、ついにセクハラまがいの嫌がらせまで受けるようになる。
自分のデブデブしたわき腹を死角から突いてきたり、もっとなれなれしいやつは追い抜き際に尻を撫でていく。
「せ、せくはら!」なんて叫んで飛びのいても、子供たちはいやらしい視線を投げかけた後、げらげら笑いながら去っていくだけだ。
そして極めつけ。
移動教室だろう、20人ほどの女子の団体が廊下の向こうからこちらへ向かってくる。
自分の姿を認めたとたんに「ククク」と笑い出し、すれ違いざまに先頭の子から順に「キモい」「キモい」「キモい」・・・と20人全員が耳元でささやいていった。
そしてとどめに最後尾の子が人の尻を撫でていく。
これに対して自分は「うん、よく言われる」「そうだね」「ありがとう」「照れちゃうね」「惚れんなよ」「うん、知ってる」ネタが尽きると初めに戻る・・・と、ニコニコしながら思いついたままに同意してやった。
こういう行動に出るのは100%女子である。男子はまずここまでやってこない。
「ほんと人気者だね、先生」なんて隣にいた子がフォローしてくれるが、こちらは内心戦々恐々としている。こんなシーンを悪意ある教員が見とがめ、俺をセクハラとか生徒ととの不適切な関係とかいう罪状で告発しやしないだろうかと。
いじってもらえる幸せ。
同時に、内心とてもニヤニヤしているのも正直なところだ。
自分で宣言するのもおこがましい話だと分かっちゃいるが、確かに自分は多くの子供たちに好かれている。これは紛うことなき事実である。
もちろん、全員じゃないのは言わずもがな。自分を見かけると露骨に嫌そうに視線をはずす子だっている。
子どもたちのこのような嫌がらせは、ちょっと度を越したスキンシップであり、好意の表明でもあるのだ。と信じたい。
本当に嫌いな教員だったら、必要な要件があるとき以外に自ら近づいていくことなんかないだろう。しかもあらひふのおっさんである。
笑顔の理由。
ある日、ついに秘密が一つ明らかになった。
いつも通り廊下を教室に向かっていると、同じくいつも通り子供たちがニコニコしながら手を振ってくれたので、その子たちに話しかけた。「ほんとわかんないんだけど、俺の何がそんなに面白いんだ。普通に歩いてるだけだよな。お前たちずっと笑いっぱなしじゃないか。」
「だって先生、ずっとニコニコしてるんだもん。ほんとキモい。」とまたケラケラ笑ってくれる。
なるほど、そういうことか。
確かに、自分は例えば父親の死といったすごい個人的事情があろうとも、そして職員室では結構しかめっ面でいらいらと仕事していたとしても、廊下に出たらずっと笑顔でいるよう心掛けている。疲れた顔とか出ちゃってる時もあるけど。
一般企業と比較して。
自分ら教員は子供たちが、もしくはその保護者様方が高い授業料を支払ってくださるおかげで暮らしていける。
いうなれば、生徒様はお客様そのものである。
例えばこれがどこかのデパートだったとしよう。お客様が良い商品はないかとご来店くださったとき、店員がイライラした顔で「今日ちょっと機嫌悪いから分かってね」なんて態度をとっていたらどうなることか。
間違いなく多くのお客様がクレームを入れてくるだろう。そしてそのお客様は二度と来てくれないばかりか、周囲に「ここの店員は最低なやつばかり。行ってもこちらが不機嫌にされるだけ。品物も大したことないし。存在する価値なし。」なんて言いまわるに違いない。
恐ろしいことに、最近はSNSなる情報ツールが普及してしまっているので、悪評が一瞬で世界中に拡散してしまう。
もはやその店に生き残る術はない。
学校だって同じではないのか。
確かに一般的な顧客を扱う商店とは趣が異なるのは認める。子供たちと接する時間は、8時から16時までとしたって実に8時間に及ぶ。16時で帰ってくれないけど。それが平日毎日繰り返されるのだ。
加えて部活の指導やら何かの体育祭や文化祭などのイベント開催となれば、休日返上で終日子供たちと関わることになる。
子供たちと、ずっと一つ屋根の下にいるのだ。
子供たちが学校で生活する時間は、睡眠時間を除けば、24時間中最も多くの時間を割いているのだ。
そのうえ、保護者様からの要求、クレームといったものや、生徒同士のトラブルに奔走される毎日。
顧客(子供たち)と接する性質も時間も、一般企業のそれとまったく異なるのは、これを読んでくださってる皆さんにも理解していただける所と信じたい。
とはいえ、そこはやはり金銭のからむ相互の契約に基づいて、保護者様は自分の命より大事なお子様を預けているわけで、金銭が絡む限り、子供たちはお客様と思って関わらなければならないのではないか。
お客様の前であからさまにしかめっ面していたら、確実に上司から指導が入るだろう。それでも続けるようなら、たぶん「お前は今日から退職日までずっと便所掃除専門ね。」なんてお達しがあるかもしれない。極端ではあるが。
しかし学校で教員がいつもしかめっ面していたって、たぶんそんな指導は入らない。
入らないけれども、これは自分への戒めとして子供たちの前では営業スマイルを欠かさないようにしているのだ。
働ける幸せ。
みんな、一回経験してみればいいんだ。
ほとんどの教員は知らない。失業がどれほど恐ろしく絶望的な状態かを。
もう何年も前になるが、専任をクビになってから半年間、つまり夏が終わって10月が来るまで次の学校が見つからず、何か月も教員専門の派遣会社を訪ね回り、そして職安に通った。
こんな中途半端な時期に、そうそう仕事なんか転がっていないのは分かっていたが。
そして失業が原因で、それだけではないが、元女房は息子を奪って突然実家に逃げちまったわけだ。
こんな状態になってしまった自分を責め続け、明日のまったく見えない状況に焦り、不安を解消するためにいろいろもがいてみるけど何も変化がなく、ただ朝が来て、あっという間に夜になる毎日。
ずっと家にいると気が狂いそうになるので、用事もないし金もないけど、とりあえず近所の浅草あたりを自転車で散歩してみたり。
その後、やっと10月から「産休代替教員」としての採用が決まった。
しかしそこから数年間は、毎年1年で切られる状態が続いた。
しかも、どこの学校も同じだが「来年の採用はありません」と告げてくるのはだいたい2月である。
4月から新年度が始まると知ってるはずだろう。2か月間で次の仕事が見つかるはずもないと知ってるはずだろう。
しかし、こっちの事情なんかどうでもいいと言わんばかりに、雇用期間ぎりぎりに解雇を通告してくるのだ。
運良く4月の採用が決まればいいが、このときの数年間、毎年4月は失業者だった。
一度こういうサイクルにはまってしまうと、なかなか抜け出すことができない。この絶望感、実際に味わった人でなければ理解できないものだと思う。
感謝の気持ちを込めて。
だからこそ思う。仕事があるって素晴らしいと。
生活のために、いやそれ以上に、自分の存在価値を自分自身が確信するために、必死で働くことができる。
今、自分ができることは何か。自分にしかできないことはないか。いつも自問自答しながら教壇に立つことができる。
働く機会を与えてくださった学校に対し、そして真摯に自分の授業に耳を傾けてくれるくれない子も含めて子供たちに対し、全力で俺の仕事ってどうよと問いかけることができる。
こんな素敵な機会を与えてくださったことに対し、感謝の意を表さなければならない。
だから自分は、少なくとも子供たちの前では笑顔でいようと心掛けているのだ。
笑顔の効果。
先生方の中には、もちろん支持してくださる方も多いが、相当煙たく思っている方も多いようだ。知ったことではないが。
それでも、「顧客」である子供たちの大半が自分の仕事を支持してくれている。
支持してくれているから、歯に衣着せず「キモい」「最低」「最悪」と、精一杯声を張り上げ、しかし笑顔で非難してくれる。
そのお礼に、
「うん、知ってる。」
「最低?『最も低い』のか。すげえな、この世に俺以上、下にいる人間はいないってことだろ。もはや最強じゃないか。しかもこれ以上落ちることもないんだよな、『最低』なんだもん。この状況で『最低』なら喜んで最低でいたい。」
「最悪?『最も悪い』だと? 大変だ、お前たち世界最強の極悪人が目の前にいるぞ。笑ってる場合か?逃げなくていいのか? まあ、俺程度が『最悪』なら、世界はずいぶん平和ってことだな。素晴らしいじゃないか。俺『最悪』でいいや。」
なんて笑って返してあげる。
子供たち、一様に「なんでそんなポジティブなの。」なんて困った顔で聞いてくる。
どうやら自分を困らせて怒らせたいと思っているようだ。あまりそんな怖い顔しているところを見たことがないから。なんてかわいいんだろう。
「ネガティブな方がいいか?いつも絶望にあふれたような顔で、うつむきながらボソボソ声で授業してほしいか。」
子供たち、無言で首を横に振る。
「じゃあ、何でも前向きにとらえていつもニコニコ授業やってるのは?」
子供たち、なんとも優しい笑顔で首を縦に振る。
「そういうことだ。じゃあ進めるよ。」と授業を再開する。
こんな話をした後のクラス、何か一体感というか、みんなが同じ方向を向いているような感覚を味わうことがある。
子供たちが意欲的に、瞳をキラキラ輝かせながら、自分の話を聞いている。そして積極的に発言してくれる。そんな場面を見ることが多い。そうならない時もあるけど。
これは確信である。笑顔は子供たちを意欲的にさせる。
教員が笑顔を絶やさないと、そして人生を前向きにとらえていると、子供たちは学校生活を積極的に楽しむようになる。
そしてあっという間に信頼関係も築けるようになる。
ただし、授業そのものがいい加減だったり、頼りない指導ばかりなら、ただ馬鹿にされておしまいである。
子供たちの反応は教員次第。
廊下をすれ違う女子20人が連続で「キモい」と言ってきたのは、たぶんそうすれば自分が喜ぶだろうと、子供たちが気を利かせてくれた結果なんだと思うのだ。
ともすれば、相当辛辣な言葉として心に突き刺さる「キモい」。
しかしそれは、子供たちが教員に投げつけてくる試練でもある。
感情的に「ふざけんな」「失礼だろ」なんて怒鳴り返すのか。
それとも「そういう汚い言葉を使ってはいけません」なんて大人な指導で返すのか。
それとも「うん、よく言われる」「照れちゃうね」なんて冗談で返すのか。
どの反応が正しいのか、自分が断言するのはおこがましいことだと思う。状況次第で答えも変わるだろう。
しかし返答次第で、その後の子供たちの教員を見る目が大きく変わるのは間違いない。
仕事を続けるうえで立ちはだかる多くの選択肢。自分ならどれが一番楽しいかを基準に選ぶことにしている。
その選択が「ずっと笑顔」でもあるのだ。
今日の幸せ。
この章の最後として、先日子供たちからいただいた幸せを紹介したい。
授業が終わって廊下へ出ると、隣のクラスの子たちに取り囲まれた。
そしてみんなで「見て見て。象さんなの。」と手の甲を見せてくる。
「先生にも書いてあげるね。みんな押さえてて。」そういうと、リーダー格がペンをとりに行き、残りが自分を押さえつけ始めた。
「頼むよ、やめてくれよ」なんていいながら、内心うれしくて仕方ない自分。
その結果が上の写真である。
そしてみんなで中指をくねくねさせながら「ぞ~おさん、ぞ~おさん♪」と歌って笑ってきた。
職員室に戻って手を洗うが、まったく落ちない。油性ペンで書きやがったか。
帰宅の電車内で、象さんのことをすっかり忘れて吊革につかまっていたが、降りる直前にハッと気づいて恥ずかしい思いをした。
これもまた幸せである。
次回は、教職を続けるうえで、これやったらたぶんダメだなと思っていることを、自戒を込めて書いてみたい。