日曜日、叔母が死んだ。
もう何年も中脾腫という肺ガンの一種を患っていて、ついに帰らぬ人となった。
おふくろの姉に当たる方である。
中脾腫についての詳細は、以前のブログで紹介している。
ここ1か月ほど、ずっとモルヒネを打たれて半分夢の中で生活していたようだが、病院へ見舞いに行くと、誰もいない廊下を指して「お父さんが手を差し出してる」なんてつぶやいていた。
死後の世界なんかあんまり本気で信じてはいないのだが、やっぱりそういうのってあるんだろうか。
というのも、俺自身が「そういえば」と感じてしまうような体験をしたからである。
日曜日、俺は行きつけのバーで朝5時まで酒を飲み、明るくなってから帰宅した。
昼近くに目が覚めたが、気持ち悪くて何もやる気がせず、もりそば啜ってまた昼寝した。
たぶんその時だったと思う、夢の中におばちゃんが出てきたのだ。
具体的な情景はまるで覚えてないのだが、元気なおばちゃんが出てきたのを覚えている。
「あれ? おばちゃん元気だな」と夢の中で疑問に思い、それを機に目が覚めたので覚えていたのだ。
起きるとすでに16時を過ぎていて「ああ、今日も何もせずに終わってしまった」なんてがっかりしながら、まだシャキッとしない頭でブログを書き始めた。
今思い返すに、あれはひょっとしたら、おばちゃんが最後の別れを言いに来てくれたのかと。
18時ごろ、突然電話が鳴った。お袋が取り、何か深刻そうに話をしている。
電話を切り、すぐ俺の部屋へやってきた「おばちゃんがもう長くないって。行ってくる。」
「行ってくるって、俺も行くに決まってんだろ。シャワー浴びてくる。」言い終わらぬ間に服を脱ぎ始め、急いで身支度を整えた。
そして書きかけのブログを「下書き保存」した・・・はずだった。
(今このブログを書く前、本当は下書きの続きをやろうとしたのだが、どこにも保存されていなかった。どうしてなんだ。くそう、なんだかんだで2000字近く打ち込んでいたのに。資料画像まで探してきてアップしてたのに)
おばちゃんの入院先も自宅も埼玉の川越を越えた先、若葉というところにある。
車では時間の塩梅が良くわからないし、何より俺は重症の二日酔いである。無事に到着できる自信がない。あえて電車で向かうことにした。
駅のエスカレーターにはおふくろが先に乗った。こんなにまじまじとおふくろの背中を眺めるのはどれくらいぶりだろう。
しょんぼりと肩を丸めている。こんなに小さかったっけ。
途中、池袋で親戚と合流した。おふくろは4人兄妹だが、一番上が男で、後の3人が全部女。お袋は末っ子で、死んだのは2番目のお姉さんだった。
というわけで合流したのは長女である。そしてその息子もついてきた。
自宅から池袋まで1時間近くかかり、そこから東武東上線でまた1時間近くかかる。
気の重い旅路の上、帰宅を急ぐ客で混雑する電車内。立ちっぱなしのおふくろたちの体には相当な負担だろう。
やっと若葉に到着し、駅前でしばらく待っていると、息子の嫁が車で迎えに来てくれた。
自宅にははじめてお伺いする。駅からは結構離れた場所にあるようだ。もう夜なので周囲の状況はほとんどわからないが、道路の両側には田んぼか畑が広がっているように思える。
道中、嫁の口から、もうしばらく前におばちゃんは旅だったと告げられた。薄々は感じていたのだろうが、おふくろが明らかに落胆しているのがシルエットでわかる。日曜日だったのだ、もっと早く連絡してきてくれたら、たぶん死に目に会えたはずなのに。
とはいえ、バタバタとしている中で、なかなか「もう死にそうだから早く来い」と親戚各位に電話しまくる余裕もあるまい。
遺体は今、自宅へと搬送中とのことだった。
15分くらいかかっただろうか、やっと到着である。
この一家、以前は板橋に住んでいた。しかしおばちゃんが中脾腫を患ったので、空気のきれいな埼玉の奥地に引っ越したのである。
なかなか立派なたたずまい。「いいなあ、こんな立派な家建てられて。」と心の中で嫉妬する。
家に入ると、孫3人が出迎えてくれた。末っ子は、先週の日曜にお父さんに連れられて俺の親父の三回忌に出席している。だが、その他2人はずいぶん久しぶりの再会となった。
死んだおばちゃんには2人の子供がいて、他へ嫁いだ俺の一つ上の姉と、この家の大黒柱である弟の2人である。
末っ子はまだ3歳だったか、さすがに人の死などの道理を理解できるはずもない。しかし、突然来たこともない親戚がぞろぞろやってきて、しかもみな深刻そうな、悲しい顔をしていれば、これはただ事ではないと感じているだろう。
1時間ほど待っただろうか、ついに遺体が帰宅した。
葬儀屋の車で自宅まで搬送したようだ。「喪主」が自宅に上がり「わざわざ遠いところをありがとう、連絡遅れて本当にごめんなさい。」と涙ながらに頭を下げた。
そしてすぐまた外へと飛び出す。遺体を運び込まなければならない。
俺も何か手伝おうと玄関に向かうと、そこには姉の一人娘がたたずんでいた。必死に涙をこらえていたが、俺のおふくろがそれを見つけて抱きしめると、もうどうにもこらえられず、嗚咽していた。どうやら部活帰りに母親から連絡を受け、急いで病院へ向かったようだ。
遺体運びを手伝わなければ。
外に出てみると、何やら喪主姉弟と葬儀屋が話し込んでいる「本当にここに安置しますか。」と葬儀屋が言うのが聞こえた。
いまさら何を言っているんだろう、その段取りでここまで運んだのではないのか。
話し合いは延々続く。
堂々割って入るわけにもいかないので、遠くから耳をそばだたせて聞いていたが、どうやら葬儀屋が思っていた以上に葬祭場と自宅の距離がありすぎて、これでは毎日ドライアイスを運んでこられないということらしい。
最初の話では、2日ほど自宅で安置し、その後、板橋にある葬祭場へと運ぶ手はずになっていたようだ。
というのも、何十年も生活してきた板橋で葬儀をあげてほしいとのおばちゃんのたっての望みだったようなのだ。先立たれたおじさんもその葬祭場で式を執り行っている。
だが、実際に自宅まで来てみると、あまりの遠さに葬儀屋も驚いたようで、それで話がこじれているらしい。
結局、1日分、22時間保冷できる分量のドライアイスで遺体を囲み、翌日の夕方に板橋の葬祭場へ搬送することで折り合いがついたようだ。
ここまでに、もう1時間たっている。
とはいえ、ことが決まればあとは早い。手際よく遺体を自宅へ運び込み、簡易版の祭壇をさっさとセットし、もろもろの手続きを伝授して葬儀屋は帰っていった。
その後、一人ひとり線香をあげて手を合わせる。
俺は親族の関係上、一番血が離れているので最後に手を合わせた。
そして時計を見ると、もう22時を過ぎている。片道2時間の行程である。今出ても電車はギリギリだろう。早く帰らないと。
するとやおらおにぎりの山が。そしてざく切りにされたピザが。そしてスティック状に切られたキュウリとディップするためのマヨネーズっぽい何かが。キムチが。味噌汁が。イチゴが。矢継ぎ早にテーブルへと運ばれてくる。
「いや、帰らないと。」そういうのだが、姉は「ちょっとこれ食べてって。おなかすいたでしょ。」と人の話などまるで聞かずに勧めてくる。
しかたない、急いで一つずつ口に運んだ。いかん、もう22時半である。
「もう帰るよ。電車なくなる。」いや、たぶんもう間に合わない。しかし帰れるところまでは帰らないと。
やっとわかってくれた喪主の嫁、猛ダッシュで川越駅まで送ってくれた。おかげで23時発池袋行きに間に合った。
とはいえ、もはや最寄り駅には到達できない。
別の路線の一番近い駅を目指すことにした。
池袋で同行していた親戚と別れ、急いで山手線へ。秋葉原で総武線に乗り換えた。
目的の駅にたどり着いたのは0時36分。深夜バスもない。タクシーで帰ることになった。
そうだ、飯、中途半端にしか食べてないし、あれから2時間経過している。疲れ切っているおふくろと話し合い、いったん自宅までタクシーで帰宅した後、自転車で最寄り駅前まで出ることにした。バーミヤンでサクッと夕飯を摂ろう。
結局、いつも通りビール飲んじゃうし、飲んじゃったらつまみも食べたいし。
気が付いたら閉店の2時である。
うんざりした顔をしているおふくろとは、なるべく目を合わさないようにしながら帰宅した。
容赦なく人をたたき起こす目覚ましは5時にセットしてある。もう3時間もない。
さて、今回は「叔母の死」がテーマなので、葬儀屋さんに関する広告です。
一般的に、どこの病院も特定の葬儀屋と提携していて、死人が出たらすぐ葬儀屋に連絡がいき、あっという間に葬儀までの手はずが整ってしまいます。
親父が死んだときも、まさにそんな感じでした。
そして葬儀代はとても高額なものになります。
そこでふと思うのです。もっと安く葬儀を執り行ってくるところはないものかと。
調べてみたら、葬儀費用の比較サイトがあるんですね。それがこちら。
もっと早く知っていたら、とりあえず資料請求くらいはしてみたことでしょう。
葬儀費用でお困りの方、ご利用いただく価値は大いにあると思います。